いま、自分の隣に誰かがいて、同じ風景を見ているとする。
そのとき、いちばん気になるのは、いったいこの人の目に、眼前の風景はどのように映っているのか、ということである。
これは、私が、こと文学において、書かれてあること、つまり内容よりも、その書かれ方に一貫して興味があることと関係しているのかもしれない。
「この日本で、森羅万象を語って文学になるという人、そういないんじゃないかと思う。その人の中心に文学なるものがある人。つまり言葉も、あるいは行動も、文学になるという人、そういないと思うんですね。」
これが刊行されたのは1990年で、もう20年以上前のことになる。私は何もこれを持ち出して現在の文学界を嘆こうとしているわけではなく、どんな職業だろうが分野だろうが、本物とニセモノ(あるいは一流と二流以下)の区別の基準がここにあるような気がしたのである。
中上健次はもちろん、森羅万象を語って文学になる人だった。
私が言いたいのは、たとえば、「平和」を愛しているのか、平和を愛する「自分」が好きなのか。「演劇」が好きなのか、演劇を愛する「自分」に酔っているのか、などなど。
そしておおむね、何かそういう人たちは、悲しいほど、その人生が「似合って」いない。何だかちぐはぐなのである。痛ましくて直視できない。
私の友人に、それこそ、「教師」のなかの「教師」がいる。この人は、ものの見方から考え方、行動に至るまで、つまりは骨の髄まで「教師」なのである。私はこの人に出会って初めて、これでもかと徹底すれば、教師特有の臭みがなくなるということを知った。
同じようなことは、あるカウンセラーの友人もそうで、彼女にとっては、限りなく、「世界」イコール「心理」である。だが、私は、鼻持ちならない有象無象のカウンセラーも、たくさん見て来たし、むしろこちらの方が多いような気もする。
この人たちに共通しているのは、とどのつまり、「無作」であり、「自然体」ということである。だから、あくまで「見方」ではなく「見え方」。それをやるために生まれて来たような人は、それに即して世界が見える。
そこで、あらためて、最初に戻る。
あなたには、この世界が、どのように見えているのか。
私は、それを知りたい。
絵を描く人なら、きっと、これから描くその絵のように見えるのだろう。北斎のあのとんがった富士は、誇張でも何でもなくて、彼には、実際に、そのように見えていたのだという。
じゃあ、写真家はどうなのか。美しい写真を撮る人は、きっと人よりも、世界が美しく見えているはずだし、いつも、見えないフレームがあるはずだ。たとえ、カメラを手にしていない時でも。
ものの見え方というのは、その後の思考、あるいは行動に至るまで、言ってみれば、その人のすべてを決定してしまうような気がしているのです。