高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

人間であることの限界について

私は、現在、鬱病を患っている。もう四年になる。初めは、適応障害だった。私は、常にもの書きでありたく、文学研究の道に進んだ。大学にも勤めたが、しかしその後、生活のために、長く、高校教員の仕事に携わらなければならなかった。その仕事は多忙をきわめた。よりによって、と言おうか、私の勤める学校はほとんどが教育困難校なのだった。文学どころの話ではない(ただし、生きた文学はあった)。

文学をあきらめたくなかった私は、通勤電車の駅のホームで、立ったままでゲーテを読む、夜は夜で何か書く、そんな生活を続けた。無理がたたって、教壇で、胃の激痛のためにくの字になって授業をした。そのうち、声が出なくなった。教員としては致命的だった。その高校は辞めた。

そもそも私は、自分が人間であるかどうかがわからなかった。もっと言ってしまえば、生きているのかどうかさえわからなかった。具体的には、肉体があることがよくわからなかったのである。私はいつも、自分の思った通りに生きたかった。しかし、思った通りにはなかなかいかなかった。それは、私の願いがなかなか叶わないということだけではなく、そもそも、日常において、思った通りに動けたことがほとんどないのであった。

私は、健康な身体というものを知らない。物心ついた時から、私はいつも常にどこか具合が悪かった。大きな病気も何度かし、入院も何度かしたが、そういうことは、意外につらいことではなかった。私がつらいのは、いつも、休むまでではないけれど、何となく具合が悪いという状態に置かれていることだった。動けないまでではないけれど、動くのにはとてもしんどいという、境界線に私はいつもいるのだった。

熱といったらおなじみの36.8~37.2℃。だるい。めまいがする。体のあちこちが痛い。胃腸の調子が悪い。眠れない。突発的な嘔吐(そして嘘のようにおさまる)。頭重。不定愁訴というやつなんだろうが、この辛さは本当に、抱えている人間しかわからない。私が何かしたい時に限って、こうした症状はひどくなる。私は何度自分の身体を呪ったかわからない。

いや、これだけではないのだ。今日はこのページまで読もうと思っても読めない、何枚書こうと思っても書けない、そのたびに私は、ありとあらゆる罵倒を自分に浴びせかけ、ボコボコにし、壮絶な虐待を繰り返してきた。自分の存在のすべてを呪い、自分をあらしめる世界のすべてを憎んだ。

私は、とどのつまり、人間であることを呪い、人間である自分を憎み、したがってすべての人間を憎んでいたということになる。

いったい、身体ほど、人間であることを明確に証明するものはないだろう(ただし、中身まで人間かどうかはまた別問題である)。今、わかるのは、私は、人間ではない何かになりたかった、そして今もどこかで、それを願っているということである。そしてそれを願うたびに、我が身が人間であることを身体が証明した。限界があることを。

私はその限界を憎む、しかし、どこまでいっても、人間であることを離れることはできないということを、身体が私にわからせようとしている。私が坂口安吾を愛するのは、安吾の辿った道筋がそうだったからである。安吾は、健康だったけれど。

身体の問題だけではなかった。私は、どこにでも行きたい人間である。しかし、行きたいと思ってすぐに行けることなど、当たり前だがほとんどない。移動には時間が必要だった。時間はいちおう、一日24時間しかないのだった。

人間は、どこまでいっても時間と空間を超えられないのである(そこにさらに、お金だとか、仕事だとか、学校だとか、ほんとに、人間であるということはありとあらゆる意味で限界をつくって自由を奪うことなのだと思う)。

これも最近わかったことであるが、私が、一番、関心を持っているのは、時間と空間だった。こと文学においては、その作家がどのように時間と空間を扱っているかを、知らず知らずの間に感じようとしている。それが自在であり、かつリアリティがあればあるほど、私にとってその書き手は優れた書き手だということになる。

なかんずく、時間と空間の結節点に登場人物を生かすことのできる作家を最も愛した。しかも、その時間と空間は、必然でなければならなかった。私が、中上健次を、最大級の小説家として賛美してやまないのはそのためである。彼が紀州に生まれ、そこを自分の文学のトポスとしたのは、宿命であった。たんなる出身地ではないのである。

読書の愉しみというのは、結局、時間と空間を自由に超えられるということに尽きると思う。また、登場人物を生きることで、己の小さな肉体を超えることもできる。読書の世界に限界はないのだった。しかし現実は限界だらけなのであった。

私が文学を選んだのも、そのあたりにあったのかもしれない。私が、空間と時間のなかに、身体を持った存在として生きる、まぎれもない「人間」であることをわかるために、今の私は在るのかもしれない。

私はいつか、自分が人間であることを、受け入れることができるのだろうか。人間としての自分を肯定し、愛することは、できるのだろうか。

最後に、パスカルの言葉を。「人間は、天使でも獣(けだもの)でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようとすると獣になってしまう」。