高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

文学と教育は両立するのかよ、おい

などと、大層な題をつけてはいるが、最近の感慨。

いま、国語科における文学教育についての原稿を書いているので、頭のなかは常にこの問題がぐるぐるしている。

教育の目的は何か。端的に言えば、よりよき人間を育てることであろう。一人ひとりが幸福になるために、教育はあるはずだ。

しかし、文学は違う。文学は本質的に、〈悪〉の要素を秘めている。それは、ときに、生命を破壊しかねないものだ。救いようのない絶望の世界が広がることだってある。

つまり、両者は、究極的には、交わることがない。文学が世の中の役に立つような希望に溢れたものだなんて、そんなの、おめでたいインテリが考えることだ。しかし、それをやってきたのが、国語科における文学教育だ。これは、大部分において、道徳を肩代わりしてきた。恩返し。友情。信頼。エゴイズムは、いけないね。

なぜこんなことを書くのかと言えば、何のことはない、いま書いている原稿が、教育に関するものであるため、私自身の善性を精一杯発揮しなければならないからである。いや、本当はそんな生易しいものではない。連日、善に振り切れているのである。

こうなると、心身のバランスが取れなくなる。自分の文章が、何となく空疎で嘘臭く感じられる。それを忘れたくて、今度は詩に没頭する。そうしてようやく、ゼロになることができる。

もともと私は、自由になりたくて、文学を始めた。言い換えれば、自分のなかに巣食う〈悪〉を解放したかった。自分を抑えつけて偽善者になるのは嫌だった。私は、自分のすべてを使って生きたい。ただそれだけだった。いまも、そうである。

しかしながら、私は、その文学を教えることで、ごはんを食べている。何ということだろう。ときどき、どうしようもない矛盾に引き裂かれることがある。教員の仕事が煮詰まっているとき、歩きながら呟いていることがある。「悪が足りない、悪が足りない」と。

文学と教育は、両立するのだろうか。わからない。まだまだ私は未熟だ。だからこそ、引き裂かれるしかない。両者の溝に、身を横たえねばならない。そこから見える風景は、また違ったものになるはずだから。