高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

きょうでブログ開始から半年だそうです

はてなブログからお知らせがあり、ここを開設してからきょうでちょうど半年だそうです。雑多な文章を放り込んでいるだけの倉庫のようなブログですが、一度でも読んでいただいた方には感謝の気持ちしかありません。

本当に本当にありがとうございます。

私事ですが、昨日、論文を一本、脱稿しました。それは国語教育に関するもので、苦しかった過去とも向き合わねばならず、抱えている鬱病も一時悪化して、大変な思いをしました。しかしながら、それを乗り越えたら、あとは楽しさしかありませんでした。

月並みな言葉ではありますが、苦しみのなかを真っ直ぐに突っ切ったとき、少しだけ、道がひらけるのだと思います。生きるというのは、その無限の繰り返しなのでしょうか。それはきっと、死ぬときにわかるのでしょう。それまでは、どうにでも生き抜くしかありません。

きょう、何気なく過去の日記をめくっていたら、次のような記述がありました。

 

何で私は高山京子に生まれてきたんだ。何で私はこんな世の中に生まれてきたんだ。何でこんなに傷つくんだ。何でこんなに、一つとして思い通りに行かないのか。いつもいつも、拒まれている感じ。あと一歩でいつも。人から見たらたいしたことのないことかもしれないけど、私はいつも全力で傷ついている。一人で泣いている。いつももがいている。そんな人生、送りたくなかった。誰にもいじめられたりしたくなかった。馬鹿にもされたくなかった。順調に生きたかった。苦労なんてしたくなかった。文章だって、やすやすといいものを書きたかった。人一倍思い通りに生きたいのに、人一倍思い通りに生きられない。どうして叶わないんだ。どんなにつらくてもそれでも健気に生きている人しか尊敬しない。それだけは文句なしに尊敬する。他に何の価値があるというんだよ。そういう人たちが幸せにならない世界なんて嘘だよ。人を見下し、差別し、いじめ、妬み、蹴落とす人間が幸せになっている世界なんて嘘だよ。
私にもし一凶があるなら、生きることに喜びを見出せないこと。


人生の、どん詰まりの時期に書いたものです。当時のわたしは、ただ、運命を嘆くだけでした。いつも鎖に繋がれているような感じでした。

十年以上を経たいま、わたしは、わたし以外の人間になりたいとは思わない。これまでの苦しみが、自分を作って来たとさえ思います。

とりあえず、死ななくてよかった。それが、いまの正直な気持ちです。だから、これからも、生きろ。死ぬな。