高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉の呪縛、言葉からの解放

前回の投稿(言葉の快楽③)で、およそ100冊にもなる日記をすべて処分していることについて書いたが、おかげさまで、というか、めでたく、と言おうか、およそ50冊は廃棄した。研究に関する記述の部分は切り取っておくので、仕方なくざっと読むのだが、まったく、自分の嘘つきぶり、偽善者ぶりに辟易している。その当時は精一杯悩んで書いたのかもしれないが、まだまだ、頭で書いた文章という感じである。自己との向き合い方が甘い。心から迸るような表現がほとんどない。しかも、それは、恋愛に関する記述の部分で顕著なのだった。まったく、紙とインクの無駄である。

この日記を書き続けていたあいだ、私を常に苦しめていたことは、「自分は文学者なのか教育者なのか」ということだった。もっと言えば、自分は、もの書きとしてやっていく運命にあるのか、このままほとんど何も書けず朽ちて行くのではないか、という不安と焦燥だった。そのたびに、恋愛に逃げようとした。読んでも誰のことだか思い出せないような人に対してまで、私の心は迷っていたようである。まったく驚くほど、いろいろな人を好きになったような気でいた。

私の一番嫌いな、ごまかし、すりかえの人生。まさか自分が誰よりもやっていたとは!

しかしそれよりも痛切に感じたのは、苦しみを吐き出して自由になるはずだった言葉が、かえって自分を現実に磔にしていることなのだった。自分はものを書いていくことができるのか、自問自答すればするほど、泥沼にはまり込む。自分をどんなに見つめ続けても、そこには虚無の闇が広がるばかりだ。まったく、自分は、この日記を書いていたせいで、不幸のどん底に堕ちていたのではなかろうかとさえ思う。

では、言葉とは、いったい、何なのだろう。人間を縛る言葉と、解放する言葉。その違いはどこにあるのだろう。いま、私は、膨大な言葉を捨てることで、言葉から解放されようとしている。言葉が観念を抜け出るためには所詮ただひとつ、現実の重さにひとりで直面し、一度言葉を失う以外にないのではなかろうか。私は、言葉の力を何の疑いもなく信じすぎていたのではないか。圧倒的現実の前には、言葉が無力であること。ものを書いていくのなら、そのぐらいのことは知悉すべきだった。

ある年の暮れ、坂口安吾をめぐる旅で、私は新潟に行った。人っ子ひとりいない日本海に向かった。最後に、その日記を処分する前に、そこでの感慨を記しておく。

「本当に、私は、何も知らない。何も見ていない。旅に出るとそう思う。そして、歴史を見、土地の懐を見、その大きさに、ただ、無力を感じるばかりだ。安吾が言う、生存がはらむ絶対の孤独というもの。旅は、いつもそうだ。書くこともそうだ。無限の、果てのないもの。巨大なものに、ひとりで立ち向かう。たったひとりで。何ひとつ、思い通りになどならぬ。それでも挑む。それしか私はできない。孤独を噛みしめて生きるということ。現実の重さ。みんな、さみしさに耐えられなくて、忙しくする。つまり、ほとんどの人間は、生きることから逃げている。私は、逃げない。ただ、海を、じっと見続けるようなことに耐えて、生きるしかないのだ」。