高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

アンリ・コルピ『かくも長き不在』(1961)

私がもっとも好きな女性作家はヴァージニア・ウルフマルグリット・デュラスかということになるのですが、とにかく、すごい映画だった。話の筋を知っていてこれだけショックを受けるとは。デュラスの脚本がすばらしい。小津安二郎好きなデュラスだけあって、カメラワークもどこか小津的である(人物の配置、風景)。

最初はセリフが極端に抑制されていて、話が進むにしたがって多弁になる。主人公のテレーズが、夫かもしれないと思った浮浪者のあとをつけるときの二人の距離感なんかがすばらしい。浮浪者の奇妙な行動(雑誌の切り抜き作業、顔の洗い方の丁寧さとか)が、後の重要な伏線になっている見事さ。

夫の伯母といとこを呼んで夫かどうか確かめさせるシーン、あのセリフ、対話の長回し(夫の過去をえんえんと話す)、それで夫に気づかせようと仕向けるのと同時に、観客に向かって二人の過去を説明しているのだなあ。映画ならではの手法ですね。伯母はアルベール(つまり、テレーズの夫)ではないと言う。そこで、「おかしいのはテレーズではないのか?」という疑惑を観客に持たせる。

夫役のジョルジュ・ウィルソンのすばらしさ。何というか、無垢なのである。そうとしか言いようがない。切り抜きをテレーズに持って来た時の表情なんか、涙ぐんでしまったよ。

何とかテレーズは浮浪者と二人だけになる時間をつくる。ここからはもう、息を詰めて観ていた。ダンスで浮浪者の頭の傷に気づくシーン、そしてその後、アルベールと名前を呼ぶ、男が手を挙げる、逃げる、トラックに轢かれるというシーンまで一瀉千里。たたみかけるような展開になる。とくに、名前を呼んで手を挙げるシーンの残酷さには慄然とした。テレーズだけではなく、市民が、警官が、次々に呼ぶのである。それは、市民同士が監視し合うような戦時下を思い起こさせるものだった。戦後の平和な世になって、何も悪いことをしていないこの男が、まるで悪者であるかのように名前は呼ばれる。

アリダ・ヴァリはこのとき40歳。こういう40歳のおばさん(あえてこう言わせてもらいますね)が堂々と主役を張っていて、こういうドラマを作れるフランスというかヨーロッパの懐の広さを感じた。しかしいい俳優さんだよね。大好きです。記憶喪失という、ともすれば陳腐になりかねない素材を逆手にとって、まあ、とにかくこの映画、お見事というほかはない。多くの人に観て欲しい。マジで。

デュラスがこんなにすごいと思ったのは初めてかもしれない。今までは「好き」だったけど、「尊敬」に変わった。ほとんど音楽は使われず、夫が口ずさむ「セビリアの理髪師」や、ダンスの曲だったりとか、そういう音楽の使い方も印象的でした。