高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ピーター・ブルック『雨のしのび逢い』

それにしてもなぜ、こういう邦題を付けたのか。マルグリット・デュラスの原作通り『モデラート・カンタービレ』でよかったんじゃないか。たしかに主人公の二人、しのび逢ってはいるが、雨は降っていなかったぞ!

まあ、それにしても、映画で使われている唯一の音楽であるディアベリの「ソナチネ」は美しかった。そして、映画と原作は、表現手段が違う以上、別物と考えた方がよろしいと再認識する。

原作では、夫との仲も冷え切り、単調で出口のない生活を送っている主婦のアンヌが、ふと出くわした殺人事件の詳細(のようなもの)を工場労働者である若い男・ショーバンから聞くことで、自分のなかに潜む被殺願望を明らかにし、疑似体験をしていくところに主眼がある。ひたすら一組の男女の会話を中心に進んでいくお話。だんだんと狂気じみていくアンヌがとても魅力的。

恋人である男は、なぜ愛する女を殺すという行為に至ったのか? しかしアンヌがどんなにその事件にのめり込んでも、所詮は他人のこと。現実のアンヌに行くところはないし、恋人に殺されることもない。

で、映画の場合、この殺人事件はアンヌ(ジャンヌ・モロー様様である)とショーバン(ジャン=ポール・ベルモンド。大好き!)を結びつける「きっかけ」にすぎない。その分、ありきたりのロマンスになってしまっている。しかし、これはこれでよいなと思わせてしまうから不思議。主演の二人の力でしょうか。

また、原作よりも、アンヌと息子・ピエールがともに登場するシーンが圧倒的に多い。この幼い息子の存在が、満たされない夫との生活を埋める存在になっていることが、わかりすぎるぐらいわかる。やがて彼が成長し離れていく(つまり、アンヌは捨てられる)のもわかるようになっとります。しかしながら、と言いましょうか、さすが、ジャンヌ・モローの演技はどこか乾いているので、決して気持ちの悪い母子関係にはなっとりません。

このアンヌとピエールの場面、いいなあと思いましたね。とくに、二人が森へ散歩に行くシーン。木によりかかって座り、眠っているような母親を、息子はふざけてどんどん木の枝なんかで埋めていく。そう、まるで埋葬するように。ここ、ぞっとすると同時に美しかったなー。

ところでこの映画、ジャン=ポール・ベルモンドのナイーブな演技がとってもよい。はっきり言って原作以上の存在感をショーバンという男に持たせちゃいましたね。

そして、今回初めて気づいたんですけど、この人、声がとっても美しい。なんつーか、とてもピュアな声なのだ。それが、私が敬愛してやまないデュラスの書いたセリフ(原作者本人が脚本で参加しています)をしゃべってくれるんだから。正直、映画を見ている最中、何度も身をよじったことをここに告白する。

さて、アンヌとショーバン、いつしか愛し合うようになるも、最後までキス一つしない。でも、ショーバンが「あなたは死んだ方がよかったんだ」と、アンヌの首を絞めるふりをして去っていく別れのシーン、ものすごい迫力あったし、何より官能的。

一人とり残されたアンヌの悲鳴も、ちょっと並みの女優ではできませんな。映画の最初の方で響きわたる、殺された女とすっかり同じ悲鳴。でも、アンヌは生きているんだよな。可哀想なことに。

しかし、だからと言って、アンヌが自分を探しに来た夫の車に乗って屋敷に戻るっていうラストは、ちょっとありきたりすぎやしませんかね。『人形の家』の逆バージョンか。まあ、これが圧倒的な現実なんだろうけどさ。

ところでこの映画、何より驚いたのは、舞台となる荒涼とした海辺の町の風景が持つ豊かさだった。モノクロだから、というだけではない。造船所の無機質な風景。灰色の空。海。森。どれも殺風景だし、素っ気ないのに、豊かさが溢れ出ている。たぶん、その正体は、「詩情」というやつだ。

マルグリット・デュラスは、小津安二郎の映画が好きだったんだよね、たしか。そう、どこか小津映画を思わせるような風景なのでした。