中学生ぐらいからの私の文学体験は、基本的には映画とともにあった。映画を観て、それから原作を読むというのが、生活のど真ん中にあった。
『風と共に去りぬ』もまさにそのパターンで、せっかちで根気のない私が、よくもまあこの文庫五冊分の長編を読み切ったと思う。原作は冗長すぎる、映画の方がいい、という意見もあるが、原作には原作ならではの魅力があり、それはやはり言語でしか表現できない箇所にある。
この作品は、アメリカの南北戦争を背景にしている。南北戦争と言えばリンカーン、リンカーンと言えば「奴隷解放宣言」、学校教育ではせいぜいそのぐらいしか習わず、北部は正義、南部は悪という単純な図式で、私たちは南北戦争なるものを把握させられる。そしておそらく、そのまま大半の人は死んでいくことになる。だが、私は、『風と共に去りぬ』のおかげで、幸か不幸か、そのまま死なずに済んだ。
この作品で何よりも驚いたのは、「奴隷」が嬉々として働き、主人一家に忠誠を誓っていることだった。外働きの奴隷と内働きの奴隷がいて、そこには厳然とした区別があることも知った。そして、北部の人間は、暴行や略奪を働く「ヤンキー」と蔑まれているのであった。純情な中学生が驚くのも無理はない。今になって思えば、物事は相対化されるということを最初に教えてくれたのは、もしかすると『風と共に去りぬ』であったかもしれぬ。なお、白人社会にも差別の構造があること(「貧乏白人」に「プア・ホワイト」のルビが振られていた)も、この作品ではじめて知った。
ヒロインのスカーレット・オハラについては今さら語るまでもない。私が言いたいのはメラニー・ハミルトンについて。あらゆる意味で対照的なこの二人を、性格とか恋愛とかだけで考えるのはちょっともったいない。
スカーレットみたいなタイプは、「永遠」のヒロインである。まあ、如何せん美人だし。性格悪いけど。何やらかしても懲りないけど。彼女は、究極的には時代とは無関係の存在だと言える。南北戦争だって、彼女の人格形成には一切関わってない。せいぜい右往左往した程度だ。だからこそ「Tomorrow is another day」というラストシーンのセリフも生きる。
一方、それに対置されたメラニーは、スカーレットに言わせれば「不器量」で、おとなしく、どんな時でも人を無条件に信じ、ときには愚鈍にさえ見えるような存在。そこには聖性がある。こういう宗教的な人物が、キリスト教文化圏の小説にはよく出てくるが、そうしたものを超えて私がメラニーに惹かれたのは、彼女が、ある国の、特定の時代に生きた人物だからなのであった。信念、気質、生活様式、すべてにおいて彼女は滅びゆく者であり、すでに滅んでしまった者なのである。なんというか、存在自体が「文化」だという感じがしたのであった。
この長い物語のラストは、レット・バトラーがスカーレットのもとを去る、ということにばかり目を向けられがちだけど、同時に、メラニーの死が描かれていることを忘れてはならぬ。 以下の部分は、その、私が作中で最も美しいと思う場面である。映画では絶対に表現できないのは、まさしくこのような箇所なのである。