主演はレスリー・ハワード(『風と共に去りぬ』のアシュレですが、なんつーか、数少ない、本物のインテリを演じられる俳優だと思います。第二次大戦中、乗っていた飛行機がドイツ軍に撃墜されて死んだというのは、思い返すたびに腹立たしい話)。そして、女優のなかの女優、ベティ・デイヴィスの出世作である。
初めに断っておきますが、いわゆる「共依存」というものを知っている方なら、この映画、気分が悪くなると思います。そうですね、まさしくDVです。1934年の映画だけど。
主人公のケリー(レスリー)は内気なうえに足に障害があり、画家を目指すも挫折し、医学生となる。そんな彼は、カフェのウェイトレスであるミルドレッド(ベティ)に一目惚れをしてしまいます。この最初の出会いの場面、とにかくミルドレッドの顔色が悪い(笑)。目の下にクマがあるし、まあ、これがあとの伏線のひとつであるわけですが。
この、ケリーのミルドレッドに対する感情って、愛情じゃないんだよな。執着。二人の関係は、先にも述べましたように、今の時代ならやすやすとわかる共依存の関係。つまりだ、ケリーは下層の、幸薄そうな女であるミルドレッドに尽くしまくるのですが、本質的には見下しているというか、「救ってやろう」としている。そしてその底には、自分の肉体や才能へのコンプレックスがある。それを、「不幸」な女を愛することで埋めようとしているっていう。
こうした者同士の関係って、ほんと、理屈ではないし、健全な精神の持ち主には理解しがたいようなことの連続です。ミルドレッドは、ケリーが自分を見捨て(られ)ないことを知っていて、そりゃあもう、ひどいことをしまくるしまくる。妻子ある男の愛人になり、妊娠し、出産し、捨てられる。その後はケリーの友人と付き合ってしまって、また、捨てられる。そのたびに、ケリーのもとに戻って来る。
そのたびに、彼は涙ぐましいほどに、金銭的にも援助し、奔走する。ミルドレッドが離れている間、よさげな女の人と付き合っていても、その存在すら忘れてしまったかのような振る舞い。もう、まわりもみーんな不幸になっていく。でも、これ、ベティだけが悪いんじゃないんだよ、ほんと。
助けられたときは感謝するも、すぐに自分の気持ちをふみにじる行為に出るミルドレッドにたまりかねたケリー、あるとき、ついに彼女を拒絶します。
このときのミルドレッド、いやベティ・デイヴィスの演技は、これだけで一見の価値あり。激怒し、口汚く罵るのですが、もうその内容が…。障害のある足をあざ笑い、つまらない男だ、キスが下手だ云々、とにかくケリーが絶対に言われたくないことだけを選りすぐり。さらには、留守中に男が大事にしている絵をズタズタにし、部屋を荒らしまくった挙句、大切な学費の小切手を燃やして、高笑いとともに部屋をあとにする。
今ならそりゃあ、映画でこんなことを描くなんて何でもないことだろうさ。でも、何せ1934年ですからね。しかも、ベティ・デイヴィスってば、迫真の演技すぎて、見ている方がつらくなるレベル。しかし、受け手のレスリー・ハワードも負けちゃいねえ。黙って深く傷つく演技がすばらしい。
なお、このあと、ミルドレッドは貧窮のために子どもを失い、自身も肺病にかかり、悲惨なことこの上ない形で死にます。彼女は、場面ごと、つまり、姿を消してはケリーのもとに現れるたびに、少しずつやつれ、目の下のクマは濃くなり、最後の死相が浮かんだ顔ときたらかなりリアル。ベティ・デイヴィスといえば度肝を抜くメーキャップが有名ですが、この映画あたりからなんですよね、確か。
まあ、ご本人は結構楽しんでいたんじゃないかと思いますけれども。
ラスト、ミルドレッドを失ったケリーは、足の手術が成功し、はじめてコンプレックスから解放される。医者としても独り立ちし、心穏やかで堅実なサリーと結ばれる。しかしこの映画のすばらしいのは、男にとって人生の呪縛であったものは、ミルドレッドという女ではなく、実は自分自身にあった、というところまで、レスリー・ハワードが演じていることです。
未来の妻となるサリーはケリーに、「あなたは誰も愛せないと思っていた」と言います。実はこのセリフ、かつてケリーがミルドレッドに言ったものと同じ。そう、自分を愛せない人間は、他人を愛することなどできないということです。 ケリーにとってミルドレッドという女は、まさに鏡のように自分を映し出す存在だったんだな。
でも、自分を愛するのって、簡単なことじゃないよね。