高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

清水宏『有りがたうさん』(1936)

これは、清水宏の名前がはじめて自分のなかに刻印されたと言ってもいいような記念すべき作品。原作は川端康成の「有難う」ですが、これを映画にしてしまうのだなあと。でも、このスケッチ風の原作は、映画でもきちんと生かされている。

まず、冒頭部分。主役の「有りがたうさん」は上原謙が演じています。今のご時世には到底お目にかかれないような美形。「水もしたたる」っていうのがぴったり。ただし、しゃべらないほうがよい。その彼の運転するバスが、伊豆の街道を行く様々な人々を背後から追い抜いていく、そのたびに彼は「有りがたう」と言う。最後、追い抜くのはニワトリ。そのニワトリにも「有りがたう」。

場面変わってバス乗り場。茶店。ここで横光利一の「蠅」を思い出すのは私だけ? 身売りに出される娘と付き添う老母。この映画の発表当時と言えば、日本がきわめて不景気だった時代。あからさまなセリフがなくても、そんなことはわかる。そして、乗客の一人ひとりに、その不況というか、暗い時代の翳がある。さり気ないけれどそこがすごい。乗客だけでなく、街道を行き交う人々にも、ちゃーんと「物語」がある。

そのなかでも中心になるのは、クレジットに「黒襟の女」と記される娼婦・桑野通子。当時21歳とは思えないほどハマりすぎ。「兄とその妹」よりずっといい。いやあ美人だなー。艶っぽいなー。

上りのバスが発車。今度は、正面からの歩行者とバスがすれ違う。この、上り下りの表現の鮮やかなこと。途中で出会った旅芸人が、有りがたうさんに、後から来る娘たちへ言伝てを頼む。その芸人の娘の名が「薫」なのには笑った(説明するのもバカバカしいですが、「伊豆の踊子」のヒロインの名前ですね)。シャレが効いている。

身売りされる娘の母親が、乗客に羊羹を配る。対抗して黒襟の女は酒を配ろうとするが、男たちはことごとく、「自分は甘党なので」と言って断る。黒襟の女への蔑視。しかし、羊羹をもてあます男たちは、結局は黒襟の女の酒を受けることになる。こうなると哀れなのは老母での方で、この場面、残酷である。

途中、チマチョゴリを着た朝鮮の女(クレジット表記そのままにしておきます)とバスがすれ違う。有りがたうさんとその女は世間話をする。こう書いていくと、結構あちらこちらに差別の構造が……女をいたわる有りがたうさんは、そういう構造から外れた無垢の存在なんだなあ。「一度、日本の着物を着て、有りがたうさんのバスに乗ってみたいわ」というセリフにはちょっと泣ける。バスに乗りなよと勧められても、女はみんなと歩くという。そのカメラの先には、遠く、小さく連なる、チマチョゴリの列。

こういう映画もあるんだなと思う。時代をくっきりはっきり映している。一人ひとりを掘り下げているわけでもないのに、人生が見える。有りがたうさんは、主人公ではあっても、川端康成作品の男らしく、決してアクティブではない。いわば「見る人」なのだ。彼は、ただ見るだけだ。

後半になると、乗客の入れ替わりが激しくなり、それに伴い映画全体のリズムが変わる。巧いなあ……。最初、黒襟の女と売られる娘は、バスの前と後ろに乗っていたが、途中で通路を挟んで隣同士になる。これで、売られる娘と黒襟の女は、同じ道を辿ることが暗示されている(逆に言えば、娘の姿は、かつての黒襟の女ということだ)うーん、すごい。

そして、ここからが、唯一、ドラマチックな場面。黒襟の女は、自分の貯金で車を買って商売を始めたいという夢がある有りがたうさんに対し、その金を娘のために使えと言う。翌朝、下りのバスの車内。娘と老母がいる。黒襟の女はいない。しかし、娘の口調から、有りがたうさんが、女の言葉を実行したことがわかる。

ファーストシーンとラストシーンが一緒。有りがたうさんの運転するバスは、何ごともなかったかのように、今日も街道の人びとを後ろから追い抜いていくのでありました。