高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト『三文オペラ』(1931)

あまりにも有名なブレヒトの戯曲を、いちばんはじめに映画化した作品。あと1.5倍ぐらいテンポが早かったら、傑作だったのになあと思います。

舞台はロンドンの貧民街・ソーホー。悪名高いギャングのメッキーがポリーという少女と結婚する。ありとあらゆる物を盗んで豪華にしつらえたこの結婚式には、警視総監のジャッキーが出席。二人は古くからの友人で、総監はメッキーに頭が上がりません。ところが、ポリーの父親で乞食の元締めであるピーチャムはこの結婚に激怒します。二人はかねてから商売上で縄張り争いをしていたのでした。

ピーチャムはいろいろと画策してメッキーを逮捕させるものの、メッキーは脱獄に成功。ピーチャムは総監への面当てに、聖十字架祭で大規模な乞食のデモ行進を指揮、当然、祭は大変なことになる(なお、この、デモが大混乱を呼ぶ場面は、ちょっと迫力がある。ただ黙って歩くだけなのに、誰にも止めることができない民衆のエネルギーみたいなものがよく出ていた)。

なお、最後は、メッキー一派とピーチャム、責任を取って警察を辞職したジャッキー、みんな仲良く手を取り合ってめでたしめでたし。ずいぶん端折りましたが、だいたいこんな内容。

わたくし、この話自体が好きなんですよね。何が好きかって、一方の悪人が、もう一方の悪人を何とかして警察に捕まえさせようとするところが、です。これ、悪が相対化されるのね。それに、片方が片方の生命を奪って…とかじゃなく、いわば知恵比べの戦いになるしね!

 同年、やはりドイツで作られたフリッツ・ラングの傑作『M』でも、連続殺人事件の捜査で警察にウロチョロされて困った悪者どもが、独自に犯人探しを始めるというシチュエーションがありましたけど、それと似ている。

この映画、もちろん喜劇なわけですが、ぞっとするような怖いシーンがたくさんあります。なかでも以下の3つ。

狂言回しのような紙芝居役者(?)が登場するのですが、冒頭で彼は群集に向かって、メッキーの悪行を暴いた大きな紙芝居を見せています(考えてみれば、なんともあざやかな主人公の紹介だ)。それを、人々に混じってメッキーが無表情で見ている。ひええええ! 紙芝居の青年は高いところから群集に向かって語っている。その青年目線で、つまりカメラが見下ろす形で群集のなかのメッキーの顔を映し出すわけです。これは舞台ではできない。映画ならではの効果。

②メッキーは街でポリーを見かけ、一目で魅かれ、追いかける。逃げるポリー。彼女は、ふと、店のショーウィンドーに飾られたウェディングドレスに見惚れる。そこにメッキーの顔が映る。この一連の場面、音楽もセリフもまったくないので、サイレント映画みたいなノリがやけに怖い。

③乞食の元締めのピーチャムのオフィス(笑)がまた怖い。ここには連日、たくさんの乞食が救いを求めてやってくるのですが、その壁には、「人々が憐れんでくれる服装」なるものがAからEまでタイプ別に飾られている。つまり、乞食用のユニフォームです。薄暗い空間で、しかもマネキンなんてもんじゃない人形が、ボロボロの服を着せられて五体も並んでいるその姿は、まるで磔にされたキリスト。

この映画はオペレッタという形式なので、オペラほどではないけれど、劇中でいろいろな歌が歌われます。私は音楽に明るくはないのですが、どれもかなり高度で、歌うのが難しいものばかりだということぐらいはわかった(とくに結婚式でポリーが歌うやつ)。それから、美術に、表現主義の影響が色濃く出ている。いやあ、何ともシュールな世界。つまり、両方とも、ちゃんと伝統を踏襲しているんですね。

 と同時に、時代性。原作は19世紀末の設定。しかし、この映画が作られた1931年を考えると、コミュニズムやら不況やら、つまり当時の意味での「現代」とうまく重なる部分が多々あったのではないかと。それが、乞食のデモに集約されていると、私は思うわけです。