我ながら恥ずかしくなるほど、わかりやすい。無償の愛だ。しかしこれらはどれも、報いられることのない悲劇でもある。
だから、これらにも増して、誰が何と言おうが、私が今もって、この世で最も美しく、かつ幸福な物語だと信じているのは、仏典に出て来る徳勝童子の話である。
ある日、徳勝童子は、道端で砂遊びをしていた。そこを釈尊(釈迦)が通りかかった。その姿に打たれた徳勝童子は、自分も何かを差し上げたいと思った。まわりには何もない。そこで、とっさに自分がつくった砂の餅を差し出した。釈尊はそれをありがたくいただいた。その徳が実り、徳勝童子は、釈尊の滅後百年に、アショカ大王として生まれた――といったもの。
この話は、幼子の行為であるかどうかはほとんど関係がなく、仏に対する供養の大切さを説いていることはもちろん言うまでもない。
おそらくこの読み方は正しくないのだろうけど、後年アショカ大王になったことは、物語を読んだ私にとってはオマケみたいなものだった。そもそも、功徳とはオマケのようなものだ。
この子は、大王になるために砂の餅を供えたわけではない。
差し出したのは、曇りのない真心そのもの。砂の餅は食べられない、貰ってもどうにもならないと、童子が迷ったりしたらそれでおしまい。そこにあるのは、ただ、何かをしたいという切実さだけだ。
受け取る側も、切り捨てることだってできる。こんなもの食えるか、と。あるいは、子どもの戯れに付き合う態度を見せることも可能。でも、それではおしまいなのである。
釈尊が受け取ったのは、「物」ではなく「心」だった。
それはつまり、釈尊も真心の人だったということにほかならない。
互いの心が、寸分の狂いもなく一致している。たとえ一瞬の出来事であったとしても、こんなに美しいことはないし、幸せなこともない。
私が、森羅万象から、命がけですくい上げたいのは、こういう世界なのである。芸術というものは、このような、作り手と受け手との幸福な瞬間のためにあるのだと思う。