高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

不条理劇の最高傑作と呼ばれるこの作品を、私は長い間読んでみたいと思っていた。そして数年前、ついに読んだ。

感じたことは二つ。上演されている、劇として観たいと思ったこと。日本ではすまけいの舞台が有名だが、確かに、これは並大抵の俳優ではとてもじゃないがつとまらないと思う。意味を考えると、果てしなくわからなくなってしまい、その俳優、もしくは演出家の小さな解釈に陥ってしまい、ベケットの精神とは遠くかけ離れたものになってしまうだろう。だからと言って、ナンセンスなドタバタ喜劇でもない。アメリカで最初に上演された時は、「パリ直輸入の爆笑コメディ」という謳い文句であったそうだが、さすがの私でもそれはないだろうと思う。

もうひとつ感じたのは、私には、この作品がわからない、という、挫折感だった。たぶんこれは、読むたびに無限の解釈が出来るし、劇を観たらまた違うであろうし、年齢によっても、それから境涯、生命状態でいかようにも変わってしまうであろうということだった。難しいなら難しいなりに、その時の自分の力で精一杯読むこと、そして書くことに賭けて来た私にとって、それははじめて味わう形の挫折だった。私のこれまで培ってきたもの、知識、経験、そういったものすべてをひっくるめて、やすやすと覆されてしまったのだった。だから、わかったふりなんか、しない。

主人公の二人、エストラゴンとヴラジーミルが待ちつづける「ゴドー」は、すぐに神のことだとわかる。来るか来ないかわからない神を待ちつづける。だが、それだけでは収まるなら、この作品は歴史に残るものとはなっていなかったはずだ。欧米人にとって、神なる者がどうとらえられて、いや、「感じられて」きたか、たぶんそういうレヴェルまで深く潜らなければわからないだろう。〈解釈〉ならいくらでもあるが。だからこの劇、演じる側は、無心にその役を生きるしかないと思う。そしてたぶん、その俳優の生そのものが、残酷なまでに、研ぎ澄まされた形で舞台に乗せられるような気がする。

私の好きな場面を、最後に引用しておこう。第二幕。
 
エストラゴン  まあ、それまで、興奮しないでしゃべることにしよう。黙ることはできないんだからな、おれたちは。
ヴラジーミル  ほんとだ、きりがないな、わたしたちは。
エストラゴン  それというのも、考えないためだ。
ヴラジーミル  いつも言いわけはあるわけだ。
エストラゴン  聞かないためだ。
ヴラジーミル  いつも道理はあるわけだ。
エストラゴン  あの死んだ声を。
ヴラジーミル  あれは、羽ばたきの音だ。
エストラゴン  木の葉のそよぎだ。
ヴラジーミル  砂の音だ。
エストラゴン  木の葉のそよぎだ。

沈黙。
 
ヴラジーミル  それは、みんな一度に話す。
エストラゴン  みんな、勝手に。
 
沈黙。
 
ヴラジーミル  どちらかというと、ひそひそと。
エストラゴン  ささやく。
ヴラジーミル  ざわめく。
エストラゴン  ささやく。
 
沈黙。
 
ヴラジーミル  何を言っているのかな、あの声たちは?
エストラゴン  自分の一生を話している。
ヴラジーミル  生きたというだけじゃ満足できない。
エストラゴン  生きたってことをしゃべらなければ。
ヴラジーミル  死んだだけじゃ足りない。
エストラゴン  ああ足りない。
 
沈黙。