高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

グレゴリー・ラ・カヴァ『ステージ・ドア』(1937)

タイトル、そのまんま。女優を夢見て、毎日を精一杯生きている女(の子)たちの下宿屋が舞台。キャサリン・ヘプバーンジンジャー・ロジャースのW主演。

どこの国でもいつの時代でも、夢を追うというのは貧しさと隣り合わせ。ここに出て来る女の子たちもそうです。ただ一人、新しく下宿人となった社長令嬢であるテリー(キャサリン・ヘプバーン)を除いて。理屈屋で物怖じしない彼女は、皆のなかでもちょっと浮いた存在。ジンジャー演じるジーンは野心家で皮肉屋で喧嘩っ早い女の子。

他にこの下宿には、有名プロデューサーであるパウエル(アドルフ・マンジュー)の愛人になっているリンダ、すでに中年以上の年齢にさしかかっている女、南部生まれのジュディス(ルシル・ボール)、田舎から出て来た子などがいる。そして重要な存在、ケイ(アンドレア・リーズ)。彼女は才能があり、芽が出かけているものの、貧しさのあまり餓死寸前になっています。

しかし、こういう群像劇ってある意味残酷。役の重要性に関係なく、たとえチョイでも光る人はどうやったって光る。それがルシル・ボールだった。ラストで彼女は女優をあきらめて結婚する道を選ぶのだけど、よかったねえ。かわいいし。はっきり言ってジンジャー・ロジャースよりもよかったよ。淀川長治先生も『映画千夜一夜』でそうおっしゃっておりました。

なお、キャサリン・ヘプバーンはあらためて、本当にすごいと思いました。そのセリフ回しと動きで映画のリズムやテンポをあっという間に支配しちゃうんだからね! こんな人いないよ。

この映画の山場。ケイがもう少しで射止めるところだった役をテリーが奪う形になってしまい、ケイは絶望のあまり、舞台の初日に自ら生命を絶つ。テリーは本番直前にそのことを知らされる。それまでのテリーときたら、この役をどこかなめているし、屁理屈こねるし、悲劇なのに悲しさの欠片もありゃしないって感じで稽古をしているのですが、この本番の舞台で、はじめて女優として化ける。いやあ、ここでの変貌ぶりは鳥肌もんだった。

たぶん、友人が死んだことは、何不自由なく育って来た彼女が初めて知った悲しみだった、そしてそれは女優には不可欠のものである――ということなのだろう。

と、これだけなら安っぽい感動物語になるんでしょうが、私が気に入ったのはテリーが観客から拍手喝采を浴びた後のシーンでした。実はテリーがこの役を得たのは、富豪である父親が陰で出資したから。いやあ、残酷だねー。所詮カネなんだよねー。パウエルはじめ男たちは、大騒ぎの劇場で、次のような言葉を交わします。

「(これだけの才能は)去年のあの子以来だな」

「あの子はどうした」

「今度声をかけるさ」

「あの子」とはケイのこと。でも、この時点でもうケイは死んでいるわけで。しかも、名前、覚えてもらってないし。どこまでも使い捨てなんだよなあ、ショービジネスの世界は。これはちょっとほろ苦かったです。

さてさて、私がなぜこの映画を見たかと言えば、ひとえに、W主演であるキャサリン・ヘプバーンと、絶賛ご贔屓のジンジャー・ロジャースが見たかったからであります。

しかし残念なことに、この映画のジンジャー・ロジャースはあんまりよくない。ちょっと肩に力が入りすぎている気が。ヘプバーンと張り合ったのか? でも、ご贔屓さんをけなすにはあまりにも忍びないので、ひとつだけ。

好色なプロデューサー・パウエルに見出されたジンジャーが、ナイトクラブのダンサーとして踊るシーンがあるんですけど、ここで私はもう確信したね。この人は、何というか、雰囲気(ムード)をつくるのが巧い。

フレッド・アステアとのコンビで知られる彼女ですが、本格的なダンスの訓練は受けておらず、技術的には他のパートナーたちの方が上、とも言われている。それなのに、なぜ二人は「史上最高のダンシング・チーム」と言われるようになったのか。

それはつまり、総合的な表現力だ! カンだ! ただ踊るのではなくて、この場面のこの踊りはこういう感情で踊る、とかいうことに、たぶんものすごく長けているのであるよ!

それにしても、ジンジャーはどうしてこうもすれっからしで気の強い役が似合うのか。タバコを勧められて、「7歳で禁煙したの」と言って断る場面とかね。そしてヘプバーン、どうしてこうも硬質で知的な役が似合うのか。

映画ではこの二人、ルームメイトの関係。でも、実際は仲が悪かったんだよね(笑)ベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードほどじゃないけれども。しかしそこはさすがにプロ、けっこういいコンビになっていました。しかも、妙に萌えるシーンも。

パウエルがジンジャー演じるジーンに目をつけ、誘惑して新しい愛人にしようとする。野心家のジーンもそれに乗ってチャンスを得ようとするが、ヘプバーン演じるテリーが機転を利かせてその仲を裂いてしまう。その時、テリーは「私、あの子が好きなのよ(だから、堕落させたくはない)」と言うんですが、はっきり言って萌えたね、これは。

まあ、この二人が合わなかったのはもう出自としか言いようがないな。ジンジャーは苦労人だし、ヘプバーンはお嬢様だし。しかも、お互いがそれぞれ、「こういう役だけは絶対にやれない」というのを演じているような感じがする。

そして今回、この二人を見ていて、もう一つ新鮮な発見が。非常に感覚的な言い方で申し訳ないのですけれども、映画を見ていると、しばしばその役の小さな裂け目みたいなものから、俳優その人のパーソナリティーが見えることがある。今回は主演の二人が対照的すぎたゆえか、それが際立って見えた。

すなわち、ジンジャー・ロジャースは小柄で金髪、女の色気も武器にして生きようとする役柄なわけだけど、この人は、本質的にはきわめて健全かつ気風のいいお姐さんなんですね。他の映画もいくつか見たけど、煽情的な衣装を着ようが、ラブシーンだろうが、何だかあっさり、サバサバしている(ま、だからこそ、なぜかアステアとのダンスになると、かわいらしさや色っぽさ、優雅さまで引き出されるので、やはりこのコンビは謎が多い)。

 それに対してキャサリン・ヘプバーンは背が高く、髪は黒く短く、全体的にごつごつしており、おまけに理屈屋。それなのに、しばしば垣間見えたのは、この人の何とも言えないかわいらしさ、脆さ、女(の子)らしさなのでした。そう、まさに、「乙女」って感じなのでした。