私はオードリー・ヘプバーンがそれほど好きではないが、その映画はだいたい観ている。『ティファニーで朝食を』も、まず映画で観て、それから原作を買って読んだ。
私には、原作の方が良かった。主人公のホリー・ゴライトリー、名刺には「旅行中」にふさわしく、彼女は最後まで誰にも所有されず、ましてや語り手の「私」と結ばれることもなく、ブラジルだかブエノスアイレスだかからのハガキを寄こすところで終わるからだ。「アフリカの掘立小屋だろうがなんだろうが、ともかくホリーにもどこか安住の地があってほしいもんだ、と私は心に祈った」という、そっけない末尾の一文もよい。
いったい、カポーティという人はニューオーリンズに生まれ、両親が離婚した後も南部を転々としていたせいなのか、作品から、北部ヤンキーの香りはしない。南部の、どこか渇いた、というか、干し草の匂いがするような人物が登場する。ホリーもまさにそんな感じで、そして彼女の放浪には、出自の貧しさがまとわりついている。まだ少女の身で、子だくさんの中年男の妻になり、そこを逃げ出し、ニューヨークで暮らしている。そもそも、ティファニーに憧れるっていう設定がもう、田舎から都会に出て来た者の典型で……。
ホリーのような、少女性を失わない娼婦、永遠に誰も所有できない女というのは、ある種永遠のヒロイン像だし(マノン・レスコーもそうだし、谷崎潤一郎のナオミにもそんなところがある)、作家だったら一度は書いてみたいんじゃなかろうか。どうなんでしょ。
さて、私は、ホリーが逮捕され、惚れた男に捨てられ、「私」に、「あたし流産しちゃったのよ」というシーンが、昔からなぜか一番好きである。このときのホリーは、十二歳の少女のようにあどけない。それが、なぜなのか、なぜかよくわかる。
つくづく、映画は駄作だった。なんだあのラストは。ハッピーエンドじゃないか。
おそらく、カポーティの少年時代をモデルに書かれたものだと思うが、「ぼく」と「おばちゃん」の冬の大きな仕事――クリスマスケーキ作りを書いた童話めいたもので、当時の私の願いといえば、ここに出てくるクリスマスケーキと同じものを、同じ手順で、もっと言えば同じ場所でつくることと、この作品の絵本をつくることだった。
まったく、ここに出てくるケーキときたら!日本のクリスマスケーキのように、どれも同じに見えるような代物ではなかったし、私がどんなに想像をたくましくしてもわからないものであった。ピカンという果物がどんなものか、あの頃の私は、ふとんのなかでずいぶん考えた。
この話は、決して楽しい話ではない。「ぼく」は成長し、すでに家を離れている。「おばちゃん」は年をとり、物語の終わりには、次のようになっている。
「十一月の朝がやってきます。木はまる坊主だし、小鳥の姿も見えない冬の朝です。しかし、おばちゃんはいつものように起き出して、『おやまあ、フルーツケーキの支度にかかるのにはもってこいのお天気だよ!』と、うれしそうな声をあげることができないのです。ぼくにはそれがちゃんとわかっているのです。おばちゃんが亡くなったという通知は、虫の知らせでとっくにわかっていることを、ただ裏書きしただけのことです。」
カポーティは、外国文学のなかでも特別に好きな作家です。