高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

シドニー・ルメット『十二人の怒れる男』(1957)

さすが、映画史上に輝く名作なだけあって、名作(変な日本語)。であるからして、以下、私が申し上げることも、すでに誰かが言っているであろうということは容易に想像できますが、どうかお許しを願いたい。

まずこの作品、とにかく一言で表現するならば、「(良くも悪くも)アメリカという国がよくわかる映画」。

いえね、あんな巨大な国を、たかが100分にも満たないような一編の映画でわかったような気になったら、そりゃ罰が当たりますよ。でも、凝縮されているからこそ見えるものというものもある。いささか飛躍しますが、たとえば詩人なんかは、ちょっとした葉ずれの音から宇宙を感じたりするわけですから。

ストーリーはいたってシンプル。父親殺しの罪に問われた少年の裁判。十二人の男が陪審員として集まる。法廷に提出された証拠は被告である少年に不利なものばかり。大方の予想は気楽なもので、全員一致で有罪になるものだと思われていた。しかし、ヘンリー・フォンダ演じる陪審員8番がそれに疑問を呈す。そこから一つひとつ検証が始まっていく。時は夏、蒸し暑い夕方。場所はほとんど密室とも言える狭苦しい部屋。

これは、全員一致で有罪か無罪かにしなければならないというシステムがあるからこそ成立する映画なのですが、なぜこれが「アメリカ」なのかというと、そのシステムというよりはむしろ、検証の過程で露出していく陪審員それぞれの抱える事情や性格なんかが、何と言いましょうか、かの国ならでは、ということなのです。

たとえば、最後まで異常なほど有罪に固執する陪審員3番、彼は自分の息子との確執を事件に投影しているわけです。つまり、このオッサンは、息子への潜在的な恐怖があるからこそ、被告の少年を有罪にしなければ気が済まない。この確執は暴力的なものをはらんでいるという点が重要。ま、典型的なDVですわな。家庭は崩壊。実際目の前にいたらぶん殴りたくなるような嫌な奴ですが、これ、よく悪玉を演じているリー・J・コッブがやっております。

他にも、この男たちと来たら、たとえば工場労働者である陪審員5番はスラム街で育った過去がある。7番はこの後にヤンキースの試合を観戦する予定があるので一刻も早く議論を終わらせたい。10番は自動車修理工場の経営者で、貧困層への差別や偏見まる出し。11番はユダヤ系の移民で、人柄は良いがその訛りをしばしば揶揄される…といった感じ。

しかし、みな、ごくごく一般的なアメリカ市民。その彼らの姿から、富裕層と貧困層、移民、差別や偏見、個々人の欲望といったものが、どんどん露呈していく。それと同時に、少年の事件を検証する過程おいて、証拠や証言は一つひとつ覆っていく。多数決を取るたびに、無罪を主張する者が増えていくので、その緊張感たるや、ものすごいものがある。しかし、だからこそ、繰り返し見るにはちょっとつらいところもある。

ラスト、「無罪万歳!」と言ってみんなが抱き合う、喜ぶ少年…といった感じに、変に甘くならないのも良かった。市民としての責任と義務を果たした男たち。お互いにもう二度と会うこともないであろう。だからこそ、いささか疲れた様子で素っ気なく散って行く。陪審員9番の老人だけが、H・フォンダ演じる8番に親愛の情示す。自分の名を言い、彼の名前も尋ねようとする。しかし老人も、ふと思い直し、そのまま無言で立ち去っていく。

結局この映画、アメリカという国が持つさまざまな「負」の側面に対して、多かれ少なかれ、彼らの誰もが拠り所として生きてきたであろう、アメリカの「良心」という一点が勝つかどうか、ただそれだけなのです。その素朴な力強さが、この映画を名作たらしめている所以。主役のヘンリー・フォンダが突出しているわけでもないので、それぞれ個性が違う役柄を見事に演じきったこの男たちには、ぜひ拍手を送りたいですね。