高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

日記から(ウディ・アレン『アニー・ホール』やカポーティ『叶えられた祈り』のことなど)

9.8 生徒たちが、私のことを、「俺たちの言いたいことを全部代弁してくれる人」と言っていたらしい。何をもってそう思われたのかはわからないが、それは私にとって最大級の誉め言葉だと思った。

帰宅し、『アニー・ホール』を見た。好きか嫌いかと言ったら、見事なぐらいちょうど真ん中ぐらい。カリカチュアされたインテリがちょっとしんどいときがある。しかし妙に納得したのは、どんなに斬新な手法を使っても。これはまちがいなく男女の愛の物語で、誰かが言っていたように(池波正太郎山田洋次?)、芸術は人間(関係)を描くものだということ。

なぜこの映画を観てそう思ったのかといえば、描いてある根幹にあるのは出会いと別れで、ものすごくシンプルだから。その土台がしっかりしていれば、手法がどんなものであっても、作品は見られたものになるし、ひいては優れたものになる。そういう意味で、ウディ・アレンはすごい監督だと思った。大事なのは基本ということですね。当たり前ですね、人間がいなければ芸術は成り立たないんだから。そもそも作る必要がない。

あと、ニューヨークとロスの対比が面白かった。ニューヨークは自然、ロスは人工という感じ。私はニューヨークが好きです。ダイアン・キートンのファッションがまあおしゃれ。カーゴパンツをよくはいているところが気に入った。アレンのチェックのシャツもだけど。衣装によく目がいくというのは、イーディス・ヘッドを知ってからである。

昨夜、ミス・マープル物の最大の傑作は『スリーピング・マーダー』なのではないかとふと思った。『書斎の死体』も、ありがちなシチュエーションをひっくりかえしてみせる語りの面白さにあるのだと思い、そりゃ私が好きになるわな、とも思った。

 

9.14 カポーティの『叶えられた祈り』を読む。以下、メモ。

・はじめて、『ティファニーで朝食を』のホリーのような存在がわかる。

・一番生き生きしているのが、カポーティの人生を狂わせたあの社交界のゴシップの章。それ以外は、訳(川本三郎)のせいか苦しさを感じる。元ネタがあったからその箇所が生きているのか、会話を書くことについてのカポーティの才能なのか。

社交界(というか上流社会)のむなしさに関しては、『華麗なるギャツビー』の方が上。『叶えられた祈り』は未完だから何とも言えないが、それは人物造型にもある。つまり骨格のこと。それは物語としても、そういう重厚さみたいなものを書く力は、カポーティにはなかったのだ。骨格(土台)をつくるのは何か?思想哲学か、宗教か。

・解説にあった、アメリカ文学のテーマが、「イノセンスと喪失」にあるというのは納得。

・せめて、社交界から総スカンをくらっても書き続ける化け物じみた強さがあればなあ。そういう意味で島崎藤村はすごい。化け物。

・しかし、アメリカ社会の負の部分――セックス、ドラッグ、金。何とおぞましい世界か。すべて欲望が原因だ。こういうのが芸術家だと思っていたけど、ふと、思い出したのがオースティンやエミリ・ブロンテ。彼女たちは結婚もせず、一生、自分の生活圏で過ごした。それなのに、あの強靭な物語ときたら。抑圧が強いからか、宗教が生きていたからか。抑圧がなく、欲望が無制限に拡散されていく社会では、少なくとも深みのある文学は生まれない。同じカポーティでも、『冷血』はあの狭い町が舞台になったからこそ、深さが出たのだ。

 

9.20 とにかく、どうにかして、自分の心を表現したい。誰かの慰めになればいい。イメージを現実のものにしたい。自分を縛りたくない。余計な言葉は減らしたい。日記を読み返してみて、いいなと思う表現、それは、すべて距離感が適切なものだ。ピントが合うように。感情も、適度に抑制されている。「私」が生きている。悪いのは、頭だけで書いているもの、借り物の言葉。感情にのまれた言葉。かえって薄っぺらい。死んでいる。たぶん、そのとき、自分の心は見ているかもしれないが、姿まで見ていない。つまり、俯瞰的に、ありのままの「生命」を見ていない。

見たものを書くというより、生命に映ったものを書きたい。映ったもの。それには、自分の生命をあますところなく映し出せるようにならないとだめだ。他者というもの。他者を見る。それが生命の鏡に映る。そこに映ったものを書きたい。生命に映るのは圧倒的に他者であって、そこで自分を映すことは容易ではない。他者がいないと、自分すらわからなくなるのだ。一生懸命ひとりで自分の心を見ようとしても、それは難しい。瞬間瞬間、移ろうものを、見た、とは言い切れない。たんなる現象じゃないか。

言葉とはとどのつまり、私には祈りなのである。祈りがそこにないのなら、はじめから書く必要なんかない。祈りは、届いて欲しい。誰かに向けてじゃなければ、やっぱり、ものは書けない。誰かに伝わりますように。それがないのは、ただのひとりよがりだ。