高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

書かずにはいられないひとたち

当ブログ2023年5月16日の記事「言葉について」では、「言葉を、選んで、選びすぎて、ついには言葉がなくなる」と言った教え子について書いている。

実は、私が、「生きている」、しかも身近な他者について書いたのは、このときが初めてだった。それまでの私は、とくに依頼のあった原稿でもないかぎり、研究者としては、あくまでもすでに死んだ人間を相手にしていた。

その私に、3年の沈黙を破ってものを書かせたのは、ひとえに、この教え子の「言葉を、選んで、選びすぎて、ついには言葉がなくなる」という表現に、心を動かされたからなのだった。いや、そんな生易しいものではない。

何としても、この言葉を書き残さねば。

私は走り出していた。いまの言葉を、この瞬間を、忘れないように。気づけば一気に文章を書き上げていた。書かずにはいられなかったのである。

これをきっかけに私は、生きた他者に興味を持つようになった。それまでの私は、他者を拒み、自分の世界のなかだけで暮らしていた。でも、どこかで、その小さな檻を打ち崩してくれるような誰かを、常に求めていたような気もする。

「言葉について」のエッセイが掲載された雑誌を、私はその教え子に贈った。だが、冗談でなく、渡すときには足が震えてどうしようもなかった。もし、不快な気持になってしまったらどうしよう。そのぐらい、他者というのは恐怖の対象だったのである。

太宰治は、あるところで、「僕は、最近、少しだけ、他人を書けるようになった」というような言葉を残している。そのときの彼の気持ち、喜び、戸惑いといったものは、私にもわかる。「人間失格」のなかのこの場面に、私は震える。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

いま、私は、詩を書いている。詩という、最も自己表白に適した形式にもかかわらず、私は他者を書くことが多い。それは想像上の人物だったり、どこかで見かけた人間だったりと、あるいは身近な者たちだったりと、実にさまざまであるが、共通しているのは、とにかく、書かずにはいられない気持ちにさせられたひとたち、ということになる。

だったら、小説の方がいいのではないか。そう言う人もいるだろう。しかし私は、ひとが見せる一瞬の煌きが好きなのである。写真をやっていたからかもしれない。ひとは、ある瞬間に、そのひとの全人生を見せる。美しさであることもあれば、目を背けたくなるような醜さの場合もある。わたしはそれを見逃さずに拾い上げて、言葉として定着させたいだけなのだ。

私はいつも、書かずにはいられないひとたちとの出会いを待っている。それは同時に、ともすれば生を忌避しがちな自分にとって、この世に生まれ、生きる喜びを教えてくれるひとたちなのである。