高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

逃げ去る言葉、消え去る自分

※「ココア共和国」2023年1月号より

 

言葉をつかまえられない。つかまえたためしがない。それでも私はきょうも、言葉をつかまえようとする。

太宰治の「葉」という短編は、「死のうと思っていた」に始まり、「どうにか、なる」で終わるのだが、私にとって何かを書く、言葉を発するという行為は、この死と生の無限の繰り返しに似ている。文学者の言葉は一字一句みなこれ遺言である、などということを、大真面目に信じているのである。はっきりいって、いつも命懸けである。最近、友人から、あなたは生きるか死ぬかという勢いで言葉を使っている気がする、それは人としてとても惹きつけられることだけれども、近づけば斬られてしまうような怖さもある、だからその前にこちらから斬らなければ、という人もなかにはいるだろう、そう忠告された。

なるほどたしかに、私はいつも本当の言葉を吐こうとする。本当の言葉なんてあるのかはわからないけれど、少なくとも私はあると信じている。でも、自分にとって本当の言葉を吐けば吐くほど、人は離れて行ってしまう。なぜなのだろう。自分の言葉なのに自由にならない。そんな言葉の他者性を私は愛し、憎む。言葉に五体を叩きつけてみても、言葉はうんともすんともいわない。それでも私は、切ったら血の出る言葉を吐きたい。血まみれの詩を書きたい。言葉が出て来なければ、待つ。自分が言葉そのものになるまで、待つ。ひたすら待つ。そうすれば必ず、言葉と自分がひとつになるというか、言葉が立ち上がってくる瞬間というのがあって、そのときだけは、言葉というものの片鱗をつかまえたような気持ちになる。

私だって、たまには言葉で遊びたい。でも残念なことに、そんな時間は私にはもう残されてはいないのだ。いつかはわからないけれど、私はやがてこの世からいなくなる。かたちあるもの、いずれはみな消え去るというのに、それに抗うように言葉によって何かを永遠にしようとするなんて、この人間という生き物はなんと罰当たりなのだろう。なかんずく、書くことにとらわれた奴ときたら! それでも私は、書くことを、言葉を発することをやめられない。自分の拙い言葉が、もしかしたら誰かの生命を震わせるかもしれないから。

言葉はつかまえられない。つかまえたためしもない。それでも私はきょうも、言葉をつかまえるために、生きる。もし、あなたのそばに、網とカゴを持ってうろうろしているちょっとおかしな人がいたら、それは私です。