高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

自分と向き合うということ(きわめて個人的な体験から)

最近、高校の国語科教育についての論考を書くことを求められ、慣れない資料の読み込みやメモ作りに追われている。

私の専門は近現代の日本文学だが、13年間、高校の国語教員としてやってきた経験があるので、まったくの素人というわけではない。楽しみながら日々仕事に取り組んでいる。だが、ここに至るまでの道は、決して平坦なものではなかった。

私はもともと、強い熱意があって教育の道に進んだわけではない。文学をやりたくて研究を始め、それに付随するかたちで教育の道にも進まざるを得なかった者である。博士号を取得し、某大学の助教の任期を3年で終え、その後のポストを見つけることが出来なかった私は、仕方なく、高校の教員になった。

ところが、私の勤める学校は、そのほとんどが教育困難校、俗に言う底辺校と呼ばれるところだった。文学研究、ましてや博士号など、何の役にも立たなかった。「いやあ、絵に描いたように落ちぶれたね」、そう嘲笑う人もいた。

それでも腐らずに何とかやれたのは、子どもたちには何の罪もないからであった。ましてや、私の個人的な事情など何の関係もない。私はあまり幸福でない子ども時代を送ったので、生徒にいやな思いをさせることだけはしたくなかった。だから一生懸命働いた。おかげで、生徒たちからは慕われることが多かった。

しかし、私は自分が憎くてならなかった。毎日が苦しく、むなしかった。

もはや、研究をする時間も体力も私にはなかった。同期や後輩は華々しく活躍していた。自分だけが取り残されているような思いから離れることができなかった。自分には、文学をやる使命はなかったのだーーそんな思いが、13年間、私を苛んだ。そういう気持ちを振り払うかのように、時間を見つけては勉強した。

無理に無理を重ねていたからだろう。4年前のちょうど6月の今ごろ、私は適応障害になった。職場へ行くと猛烈な胃痛に悩まされ、くの字になった体を教卓で支えなければ授業をやることができなくなった。そのうち、声が出なくなった。

声が出なくなったら、教員はおしまいである。私は年度途中でありながら、その学校を辞めた。さらには鬱病になった。ナメクジのように家のなかを這いまわった。本を読むことも、映画を観ることもできなくなった。

この頃から、横になったまま、詩を書き始めた。私のこころに、かすかな希望の灯がともった。

不思議なことに、その頃、いくつかの大学から非常勤講師の話を受けた。その仕事だけは、やることができた。また、文学がやれる。そう思ったのかもしれない。少しずつ、体は回復に向かっている。昨年は、8か月かけて、一本の論文も書くことができた。

そこで今回の国語科教育の原稿依頼である。とにかく、私は何でもいいから書きたかったから、二つ返事で引き受けた。しかし、そこからが大変だった。自分のなかの暗黒時代である13年間の高校教員生活と、いやでも向き合わなければならなかったからである。ヘドロを吐くような日々が、何日も続いた。起き上がれなくなる日も、たびたびあった。

ある日、その時代に自分が作成した授業教材を読んでいるときだった。突然、涙があふれて止まらなくなった。

「自分、頑張っていたじゃないか」「あんなにいやだいやだと思いながら、こんなに真剣にやっていたじゃないか」

泣けて泣けて仕方がなかった。その日から、何かが変わった。心の底から、教員の仕事が楽しくなった。いま取り組んでいる原稿も、楽しみながらやっている。

うまくは言えないが、私は、トラウマと向き合うことができたのだろう。そして少しだけ、自分を認め、肯定することができたのだろう。いまなら、躊躇なく言える。高校の国語教員をやって、本当に良かった、と。

鬱病は相変わらずで、悩みも尽きないが、私は結構幸せである。