高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

私は誰? さあね、誰だろう。

私はたゞ、うろついているだけだ。そしてうろつきつゝ、死ぬのだ。すると私は終る。私の書いた小説が、それから、どうなろうと、私にとって、私の終りは私の死だ。私は遺書などは残さぬ。生きているほかには何もない。私は誰。私は愚か者。私は私を知らない。それが、すべて。

坂口安吾の「私は誰?」の結び。まったく、安吾らしい。大好きだ。そう思う。私は誰? 一度も思わない人間は、たぶん、いないのではなかろうか。とくに、若いときは。

そしてこの私はと言えば、いまだに、いい年をして、自分が何者であるか、わからない。人に会うと、自分が分裂しているような気さえする。

確実なのは、「高山京子」という、恐らく人間であろう、生き物であること。

前にも書いたことがあるが、高校教員をやっていた頃のこと。私の悩みは、自分が文学者なのか、教員なのか、どちらなのか、ということだった。実に、これで13年間、悩んだ。私は、文学者で在りたかった。だから、タカヤマサンハ、イイセンセイダネ、ブンガクヨリ、ゲンバノホウガムイテイルヨ、などと言われるたびに、深く傷ついた。何とか、自分が文学者であると思い込もうとして、すっかり疲れ切ってしまった。

人間は、自分が何者であるか、何でもいい、アイデンティティというか、拠り所がないと、生きていけないほど、弱い存在である。定年退職をしたお父さんたちが、途端に元気を無くしてしまうのも、帰属するところがなくなったからだ。ただの、一個の人間として、広い世の中に、放り出されるからだ。

だからこそ、己は、己以外の何者でもない、というところに立てれば、強い。これは、単純なようで、非常に哲学的な命題を孕んでいる気がする。だって、死ぬときは、みんな、何も持って行けないじゃないか。

私が、実際に、そうだった。文学者か教員か、アホみたいに悩み抜き、病気になり、学校を辞めた。正直、文学どころでもなかった。ナメクジのごとく部屋を這いまわった。

そこに横たわっているのは、ただの病み疲れた高山京子だった。でもその感覚の、何と幸せなことだっただろう。私はもう、何者にもなる必要がなかったのだ。私は、世界と握手をした。ようやく、自分と和解した。

私は誰? さあね、誰だろう。ただの高山京子。きっと、それだけ。