高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

宇野浩二『蔵の中・子を貸し屋』(岩波文庫)と私小説と話芸、ときどき西村賢太

今ではもうほとんど読まれなくなってしまったけれど、絶対に後世に残し伝えたい作家というのが何人かいて、私にとって宇野浩二はそのうちの一人である。

亡くなった西村賢太芥川賞を受賞したとき、久しぶりに「私小説」(断じてシショウセツではなく、ワタクシショウセツである)という言葉がメディアでも飛び交っていた。何を隠そうこの「私小説」という言葉を発明?したのが宇野浩二なのである。

大正末期に、純文学=私小説=心境小説という図式が成立したが、これと前後する文壇での〈純文学〉論争は、今でも十分通じる問題をはらんでいるので、ぜひ臼井吉見の『近代文学論争』を読まれたし。

ちなみに、その当時、「私小説」はまだ「所謂『私』小説」「『私は』小説」などと言われていたのであるが、それだからこそ「ワタクシショウセツ」と読むのである。

西村賢太に話を戻せば、「私小説」とともに、敬愛した作家として「藤澤清造」の名が出るが、当時の私は、まさかそんな名前が平成のテレビで放映されるとは夢にも思わず、感慨深かった。『根津権現裏』という、破滅型私小説の極北といえる作品を残したこの作家、文学史でももはや名が消えかかっていたというのに……でも、葛西善蔵でも嘉村礒多でも、ましてや宇野浩二でもなかったのが、何とも言えない気持ちだった。

私は、日本の文学(文芸と言ってもよい。それには理由があるのでこの先を読んでいただきたい)は、本質的に関西のものだと思っている。近代「文学」の歴史などと言ってもたかだか百年ちょっと、その前の千年の日本の「文芸」はほとんど関西圏のものだった。その時間の重みというのは、どんなに文明が急速に発達しようがたかが知れていて、宇野浩二、この大阪のど真ん中、宗右衛門町で育った作家も、間違いなく上方文芸の血を受け継いだ作家なのである。

その血とは何か?一言で言えば、語り、話芸の面白さなのである。

ちなみに、『枕草子』のあまりにも有名な第一段、「春はあけぼの」など、関西弁のイントネーションで読むと読みやすいですよ。ちょっとした発見。

この文庫に収められているなかでは、やはり表題に選ばれた二つが抜きんでている。

まず、『蔵の中』。私は初読の際、これで大笑いした。貧乏で怠け者の、作者自身と思わせる「私」が、質屋に着物を出し入れする、その話を軸に、それはもうくだらなくて、かつだらしのない、これまでの遍歴を綿々と語る、それだけなのだが、その馬鹿さ加減がもはや素晴らしく神々しいのである。

ここまで「私」を戯画化できるというのが、もはや芸の域で、「あとがき」によればこの作品のモデルは「近松秋江先生」で、まったくの空想でつくったというのだから、どこまで本当だかわからないが(概して、私小説作家は、こうした後書きや雑文、手紙の類まで、作家としてのポーズを演出するものであるから)驚きである。二十七歳でこんな作品を書いた宇野が、「大年増」と評されたのもむべなるかなである。

「そして私は質屋に行かうと思ひ立ちました」から始まって、「どうぞ、私の取り止めのない話を、皆さんの頭でほどよく調節して、聞きわけして下さい。たのみます」と続き、以下えんえんくどくどと語りが続く。ちょうど飽きたころに語り手は読み手を引き止める。もう少しで本題に入るから、といった感じで。そして最後は、「(おや、もう聞き手が一人もゐなくなりましたね。)」という一文で終わる。

まったく、これは「芸」なのだ。そして、江戸川乱歩が好きな方なら、乱歩が宇野浩二に影響を受けたと言っている意味が、この一作でよくわかる(ちなみに、この文庫には『屋根裏の法学士』も入っていますよ)。

ところで、語りの芸の極みといったら、とどのつまり、「おかしみ」と「かなしみ」ではなかろうか。何だか藤山寛美的でいやになるが、結局そういうことなのだと思う。

そして、『子を貸し屋』は、その「かなしみ」が、一種の峻厳さを持って迫って来るのである。友人の死によって、その子・太一を引き取って育てることになった佐蔵は団子屋を始めるがその生活は貧しい。店は銘酒屋の立ち並ぶ一角にあるが、ある時、そこで働く女が太一を貸してくれといい、そのまま連れて出かける。太一はたっぷりおもちゃやおやつを買い与えられ、佐蔵も謝礼をもらうが、女は、客とのいかがわしい情事の取り締まりを避けるために、太一を借りたのだった。子連れの逢引きなら怪しまれないというわけである。

女たちの間で、太一の存在は瞬く間に広まり、しょっちゅう借り出されることになる。佐蔵もそれをやめることができない。太一はだんだんとすれた子になっていき、佐蔵ものもとには、生活に困った者が自分の子も使ってくれと預けに来るようになる。佐蔵はいつの間にか、何人もの子を使う「子を貸し屋」になってしまっているのだった。そんな話である。

宇野浩二はこの自作を好まないと「あとがき」に書いてある。しかし、近松秋江も、正宗白鳥もこの作品を絶賛した。これは確か三島由紀夫が書いていたのだが、作家が嫌悪する自作というのは、その作家の本質につながる何かが隠されているそうだ。谷崎潤一郎なら『金色の死』、川端康成なら『禽獣』といった具合に。

宇野浩二は、早くに父を亡くし、母親とも離れて育った。その時の決定的な悲しみが、この作品には投影されているのかもしれない。