高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

永井荷風『すみだ川・新橋夜話』(岩波文庫)

いわき市に住んでいた3年の間、私は月に1回くらいの割合で、東京に出て来た。いつも、それは衝動的なもので、東京が恋しくなると、矢も楯もたまらず飛び出すのだった。

いつも、真っ先に思い浮かんだのは、隅田川であった。いわき市と東京を結ぶ高速バスのせいかもしれない。隅田川の上を走る首都高は、私にとっては遊園地だった。特に夜と来たら! 川明かりの美しさ、昔見た近未来都市そのものの首都高のうねうね、こんなにワクワクする場所はなかった。

いわき市での生活を終え、東京に戻ったときも、やはり隅田川を見て、はじめて帰って来た実感が湧いた。今は横浜市にいて、再び東京は今すぐにでも行ける場所になったが、やはり思うのは隅田川である。

そこに、荷風のこの作品である。はっきり言おう、私は『濹東綺譚』をそれほど好きではなかった。まだ若かったのかもしれない。懐古趣味のおっさんがなあ…と思った。いや、違う。荷風と私の年の隔たりは少なくない。この作品で荷風が憎んだ、関東大震災後の東京の風景というものが、すでに私の世代では、立派な歴史的遺産になっていたことが、一番の違和感になったのだと思う。

しかし、私も年を取った。この文庫に収められている作品は、どれも良かった。しみじみと、心に沁みた。荒々しい、いわきという土地を去ってから、間もない時だったから、余計にそう思ったのかもしれない。

「深川の唄」。作中の地名だけで、今の東京も鮮やかに浮かぶ。

「すみだ川」。さすが、為永春水などの人情本を愛した荷風だ。通俗的恋物語が、かくもなぜ美しいのか。何か、DNAに切々と訴えかけて来るこの人情話の快楽はいった何なのであろう。いささか話がそれるが、私はかつて文楽を見た、いや聴いた際、その語りだけで泣いたことがある。話の筋立てとしては、惚れた男がありながら、親のために意に染まない結婚をした娘がおり、「当然」、その結婚はうまくいかず、夫を殺す。娘は刑場に引かれていくが、すべてを知ったお役人が粋なおはからいをして、めでたしめでたし、というものだった。「良かったね」と私は手のひらで涙をぬぐった。まったく、困った出来事だった(それにしても、大阪生まれの文楽に「粋」などと書いたのはいかがなものか)。

「新橋夜話」は、もうどれもふるいつきたくなるような文章、そして世界である。たぶん、読むたびに一番いい作品が変わるだろう。「掛取り」もいい。「色男」もいい。「風邪ごこち」も。でも、核になっているのは、限りなく荷風の等身大に近い主人公が出てくる「見果てぬ夢」だろう。いわば主調低音である。そう考えると、『濹東綺譚』と同じで、荷風は方法意識が強い作家なのである。老車夫の助造が鮮やかだ。

荷風は官能的な作家である。目に見える。音が聞こえる。匂いを感じる。湿った、ざらついた畳の感触を覚える。味を感じる。色や音程、高低、無限に五感がざわめく。

それがまったく、文章の力なのである。

ゆえに、読むには、それなりのエネルギーがいる。生き物を相手にしているようなものだ。でも、どうか、多くの人に読んでほしい。永井荷風の火を絶やしてはいけない。

こういう、五感に訴える文章は、時が経つごとに減っていった。志賀直哉になると、ほとんど視覚のみであった。林芙美子などの近代の女性作家が、かろうじて命脈を保ったが、今ではもう、風前の灯である。

人間は、いつから、生き物として生きなくなったのだろうか。そんなことを思わされる。