高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

日記より(ウィリアム•スタイロン『ソフィーの選択』のこと)

2019年の日記から。

 

1.12 ウィリアム•スタイロン『ソフィーの選択』を読む。これも、書き出しからして、アメリカ文学のテーマである「イノセントと喪失」なのだろうか。この伝統はいつからなのか(ソローの『森の生活』も、考えようによってはイノセントの回復だ)。そしてこの伝統は、日本における私小説みたいなものなのだろうか。この作品を読んで、初めて、小説を書きたいと思った。

主人公がソフィーの腕に収容所の番号の刺青を発見するくだりはちょっと衝撃だった。歴史とか、民族とか、ヨーロッパもアメリカも、その重さが違う。流された血の量の多さとでも言えばいいのか。ソフィーがポーランド人なら、小説の登場人物は必然的にその国の宿命を担うことになる。ドストエフスキーの登場人物がおおむねロシアを背負うのもそれ。カポーティにだってそれはある。じゃあ日本はどうなんだろうと思う。単一民族扱いで、そのなかで唯一重さを持つのが被差別部落だったのだろう。それからアイヌ、在日、沖縄。狭い島国の宿命か。無意識に、小説の仕組みを考えながら読んでいることに気づく。
 
1.13 ひたすら『ソフィーの選択』を読みふける。久しぶりに、何を読んでも楽しいという子ども時代に帰ったような幸福感。しかし、すごい小説。こんなに気の滅入るような小説は久しぶりである。主人公のソフィーとユダヤ人のネイサンを造型しただけでもういいぐらいだ。歴史というものは過去のものではなく今も生き続けているものだと感じる。加えて、これは南部の物語でもある。

ソフィーの選択』のホロコーストもそうだが(それにしても、戦争を遂行する者は、ヒトラーみたいなのはむしろ稀で、だいたいが勤勉で真面目で命令に忠実なものだという恐ろしさ、そう、日本人があれだけ狂気に走ったのも、ひとえにその真面目さな気がする)、本当に、遠い出来事ではないのである。ユダヤ人迫害に賛成したソフィーを誰が否定できよう?そして肯定できよう?まだ読了はしていないが、カポーティ 『冷血』以上の衝撃。
 
1.14 『ソフィーの選択』読了。近年にちょっとないような感動。アウシュヴィッツを通して、悪とは何なのかを追求した力作。ナチスに限って言えば、これは絶対悪と言いきってよい。タイトルは、ここでは書けない究極の選択を示しているわけだけれども、ソフィーは何というか、そのつど、自分の意志や心とは無関係な選択を迫られて、それがことごとく失敗に帰するという(そりゃ神も捨てるわな。しかし、私だったら、ここまでの難があっても信仰を捨てずにいられるかと言われたら、と考えてしまう。あと、少なくともナチスの問題は、キリスト教思想では絶対に解決できないと思う)、その悲惨さ。

ソフィーは文学史に残るヒロインの一人だと思う。まったく、愚鈍でさえある。しかし、エンマ・ボヴァリーのような愚かさではない。どこにでもいるような善良な人間でもあるのだ。本当に、多くの人に読んでほしい作品。過去の問題ではない。作者の自伝的な要素があり、性の物語でもあり、ルポルタージュ的な所もあり、ネイサンとソフィーの恋愛小説(これ以上ないほどの共依存でもある)であり、歴史小説でもあり…小説というのはこんなにいろいろなことができるのか。苦しくて先を読むのがつらいときもあり、しばし読む手を止めて考え込んでしまうときもあった。

第一次大戦後、世界の覇権はヨーロッパからアメリカに移った。当たり前だけど、文学がその運命から逃れられるはずがない。文学においても世界の中心はアメリカだったのだ。ジョイスの『ユリシーズ』、プルーストの『失われた時を求めて』で、いちおうヨーロッパ文学は完結したと見るべき。ウルフが活躍したのも第一次大戦前後だった。アメリカ文学を、考えねばならぬ。