高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

太宰治『人間失格』と世間と怒りと

太宰治の『人間失格』を読んでいて、次の部分にさしかかると、私は背中が泡立つ。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

極論するならば、この地点に到達しただけでも、太宰治という作家は、未来永劫、残る。まったく、これほど、日本社会の息苦しさを表現したものはないであろう。太宰は、日本語の魔術師だったけれど、それは、日本という国を知り尽くしていた、ということでもあったのだ。

敗戦直後にこの作品が書かれてから、もう、何十年も経っているのに、日本という国は、少しも変わっちゃいない(断っておくが、私は日本を、日本語を愛している。そうでなきゃ、誰がこんな辛気くさい日本文学なんか研究するものか)。

世間。つまり、目の前のあなた。それが怖い。あなたから見放されたら、死んでしまう。そのぐらい、世間というものは、恐ろしい。

だから、みんな、感情を抑え込む。言葉を飲み込む。まるで大庭葉蔵のように。とくに怒り。大人げないとか、水に流そうよとか、そんな言葉で丸め込まれる。そう、世間に。まるで怒ることは悪であるかのようだ。そんなの、誰が決めた?

世間である。

怒っていいのである。とくに、人間の尊厳を傷つけられたときには、むしろ全力で怒るべきである。いざというときに怒れない人間は、誰も守ることができない。自分さえも。平和だって、生存を脅かすものへの怒りがなければ、実現しないだろう。

私はかつて、パワハラを受けたことがある。詳しく書くことは差し控えるが、それはもう、ひどかった。たまらず、ある先輩に相談した。その人は、烈火の如く怒った。いや、怒ってくれたのである。怒っていいんだ。そう思ったら、涙が溢れた。私は、自分が悪いと思っていたから。

もし、あなたが傷つけられたとき。傷つきすぎて意識朦朧としているとき。誰かに話してごらんなさい。そのとき、あなたの分まで真剣に怒ってくれる人、その人が本当に優しい人である。あなたの味方である。気にしすぎじゃないの、とか、適当にお茶を濁す人、その人は、あなたのことを思っていない。それこそ、「世間」の冷たい声である。それに、怒りを溜め込んだら、いつか必ず病気になってしまう。

怒りは、自分を、誰かを守るためのもの。世間の声なんか、気にするな。