高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

スタンリー•キューブリック『現金に体を張れ』(1956)

私は別に映画を作る人間ではないけれど、嫉妬するほど「天才」を感じるのは、ウディ・アレンスタンリー・キューブリックの二人である。これもすごい映画である。『博士の異常な愛情』のときも感じたが、ほんと、身も蓋もない。徹底している。救いようがないというのとは違う、このニュアンスの差は難しい。ここまで情を拒絶されると清々しい。

刑務所あがりのジョニーは、競馬場から現金強奪を企てる。仲間は5人。それが狂い始めて最後は破綻する。プロットとしてはそれだけの話。

まず、語り方が斬新である。やっぱり映画は編集だよね。登場人物それぞれの動きを、「~時~分、~は」「その頃、~は」とかで見せる。小説で言う推移をあえて可視化しているが、そこにあえてナレーションをかぶせることで逆手に取っている。したがって、競馬場のカットでは、馬の入場やゲートの設置などのカットが繰り返し使われる。

気の弱い男が浮気者の妻に計画を話し、その妻が愛人に話したところから計画は狂い始めるが、けっこう物語の最初の方でこれが起こるので、もう、見る者としては破綻をハラハラしながら見守ることになるわけです。しかしこれだけじゃないのがキューブリックの天才たる所以。複数の要因がからみあっていくのだ。そうこなくっちゃ。

たとえば、本来ならば待機しているはずの男が競馬場に来てしまう。馬を狙撃した男は逃げきれずに警官に射殺される。その前に、駐車場の係員が彼をなかなか通してくれなかったり、話しかけたりといったことが積み重なってどんどんズレを生んでいく。男はいらいらして、係員が親しみをもってよこした蹄鉄のお守りを受け取らない。そのお守りがタイヤをパンクさせ、男は逃げきれなかったのだ。そして、「~時~分、~死亡」というそっけないナレーションだけ。

しかし一番驚いたのは、アジトで待っているところに、愛人とその相棒が乗り込んでくるところ。ジョニーは渋滞にはまって来ていない。銃撃戦になるのだが、たった数発のやり取りで、気の弱い男以外あっけなく全員が死ぬ。その銃撃戦のあと、すばやくカメラは床に折り重なる死体を映す。あまりにもあっけない。あれだけ計画を立てたのに。なお、気の弱い男は、妻を撃ち殺して自分も絶命。

ジョニーは何が起こったかを悟り、金をトランクに詰め、恋人と空港へ。しかしトランクは大きすぎて機内に持ち込めない。しかたなく預ける。ジョニーのトランクを載せたカートに犬が走り寄る。カートの運転手はあわててハンドルを切る。トランク落ちる。宙に舞う札束。ジョニーは観念する。

ラストショットは、夜の空港のドア。シンメトリーに立つ警官は、ジョニーに銃口を向ける。真ん中には空港の係員。見事なモノクロとシンメトリーの構図。

象徴的なセリフがある。「彼はパズルのピースにすぎない。もっと大きな絵を描こうとしている」というやつ。人間性などみじんもなく(つまり前世紀的な「個」としての人間)、現代ではたかだかピースにすぎないことを示す。しかし、そのパズルのピースは、人間らしいちょっとした出来事の積み重ねで破綻する。このアイロニー

人間性を排除することで人間性を救っているといったら、言い過ぎかな?