高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

キャロル・リード『邪魔者は殺せ』(1947)

キャロル・リードときたらカメラマンのロバート・クラスカー、ことに夜のシーンにかけてはほとんど魔術としか言いようがない映像を撮った人である。人の名前を覚えるのが苦手な私でも一発で覚えたぐらいだから、つまりほんとにすごい人なのである。で、この映画は大半が夜のシーンだから、そりゃあ堪能させていただきましたよ。加えて雨。そして雪。たまらん。何とも言えない暗さ。そして、誰も幸せにならないラスト。

これはアイルランド独立闘争を背景にしたドラマなのですが、そんなことより私がしみじみ考えさせられたのは、「主人公」とは何なのか、ということだったのでした。主人公というのは、ある種の禍々しさを伴うものでありまして、言い方を変えると、その人を中心に不幸な出来事が起こっていく、という王道のパターンがあるということ。

この映画の主人公・ジョニー(ジェームズ・メイソン)は運動のリーダー。その資金獲得のため、3人の仲間と共にある工場から現金の強奪を企てる。このジョニーは脱獄している身なのですが、そこからどうも体調がよろしくなく、心境にも変化が起こっている。

そんな彼を愛し、かくまうキャスリーン(キャスリーン・ライアン)は心を痛め、腹心の部下であるデニス(ロバート・ビーティ)は実行への参加を思いとどまるように説得する(つまり、俺たちだけで何とかするから、と)。しかしジョニーは「俺を信用しないのか」と言って取り合わない。

冒頭のこの場面で、もう、伏線が張られているわけです。実際に私は、「あーあ」と思いましたもんね。悲劇の前兆。でも、ここでジョニーがデニスの言うとおりにしたら、ま、物語自体が成立しなくなるわけですけれども。

案の定、と申しましょうか、首尾よく金を奪って逃走、という段になって、ジョニーはふらついて車に乗ることができない。そこを撃たれる。さらに、追手ともみ合ううちに相手を射殺してしまう。仲間はようやく引きずり込むも、ジョニーは走る車から転落してしまう。そして、ここから本当の物語が始まるわけですよ。

この映画の大部分は、瀕死のジョニーの逃亡と、組織のメンバーそれぞれが追い詰められていくありさまで占められています。私が、主人公は禍々しい、と言った理由はここにあります。

さて、その後の展開。

逃げた3人のうち、2人は娼家の女主人・テレサにかくまってもらうことにするのですがが、このうちの1名が救いようのないバカ。テレサに全部しゃべっちゃいます。この男の運転のせいでジョニーは車から転落したというのに…しかも、もう1人の男が、テレサは信用ならねえって言ってるのに…これもまた案の定、テレサは警察に通報し、建物は包囲され、逃げようとした2人は射殺されてあっけなく終了。デニスは防空壕で倒れているジョニーを逃がすために自分が囮となり、捕まってしまいます。キャスリーンも家宅捜索を受ける。

ではジョニーはどうなるのか、というと、それがこの映画のちょっとユニークなところ。ジョニーは瀕死の体。主人公であるにもかかわらず、彼は動くことができない。言葉を発することもできない。しかしそれは、ある意味では画期的なことでもあったのだった。

主人公が動かなければ物語は動かない。では、キャロル・リードがどうやってその後の物語を構築したかというと、ジョニーとさまざまな市民との関わりを中心に持ってきたということ。いや、関わりと言えば聞こえはいい。実際、逃亡というよりは、半ば物体と化したジョニーが、人々の間をたらいまわしにされるという感じなのである。つまり、「動く」のではなく「動かされる」。

まず、防空壕での第一発見者は幼い少女。この、じっと見つめる目がなにげに怖い。しかし、子どもなので何もできない。その後、逢びき(死語)のカップルが入りこんでくるが、ジョニーの気配を感じて立ち去ってしまう。デニスに助けられた後のジョニーは早速、車と接触しそうになって道に倒れてしまう。善良な母娘が家に連れ帰って手当てをするも、手配中の男だとわかったために外へ追い出す。

ジョニー、今度は止まっている馬車に崩れるように乗り込む。馭者が戻って来て発車。検問の警察官に、後ろに乗っているのは誰かと聞かれ、「ジョニーさ!」と陽気に答える。警官も笑う。その後、馭者は本物のジョニーが乗っていることに気づき、面倒なことになるのを恐れ、人気のない場所で放り出してしまう。

いちいち書くのはこのあたりでやめておきますが、その後のジョニーは、小金にありつきたい老人のシェルや、瀕死の人間を描くことを念願としている画家につかまったりする。しかしこの画家のおかげ?で同じアパートに住む医師崩れの男に手当てをしてもらうことにもなります。

こういった展開はすごく面白かったですね。120分近いのに緻密で無駄がない。シェルの尽力によって、ジョニーは彼を見つけて何とか逃亡させようとしていたキャスリーンと最後にようやく会うことができますが、時すでに遅し。警官に囲まれた二人は銃弾に倒れます。

結局、ジョニーがあのとき、現金強奪に参加していなければこうはならなかったわけですよ。しかし繰り返しますが、それでは物語が成立しない。もちろんこの映画に限らず、それこそ文学では古来より洋の東西を問わず、こうやって無数の物語をつくり出してきたわけです。そんなわけで、映画の内容を超えて、私にはいろいろと考えなければならないことが増えたのでありました。