高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

梶井基次郎のこと

私は、美しいものを見ると反射的に目を閉じる。梶井基次郎の作品は、しょっちゅう目をつぶってしまうものだから、読むのに意外と時間がかかる。  

梶井基次郎という作家は、数少ない、本物の天才だと思うし、彼の作品を悪く言う人に、私は出会ったことがない。だが、一部の作家にありがちな、生き方にまで心酔しちゃうような狂信者にも会ったことがない。別の言い方をすれば、彼ほど、純粋にその作品が評価されている作家も珍しいと思うのである。

ここで思い出されるのは、小林秀雄の梶井評価だ。

「この小説の味はいには何等頽廃衰弱を思はせるものがない。切迫した心情が童話の様な生々とした風味をたたへてゐる。頽廃に通有する誇示もない。衰弱の陥り易い虚飾もない。飽くまでも自然であり平常である」という有名なもの。

たしかに、肉体的にはきわめて不健康であったはずの梶井の作品には、恐ろしいほど不健全な精神がない。甘えがないのである。あの、いやーなもたれあいもないのである。読者はどこかで拒絶される。

積み上げた画集の上に檸檬を一個置くことに美的価値を見出すこの人の感受性、子どもが、床の上におもちゃを円状に並べ、その中心に居座って、悦に入るような、そういう感じと言えばいいだろうか。子どもにはおもちゃがあればよく、そこでの自分は王様である。他には誰もいらないのだ。だから、梶井は本質的に詩人である。

私が最初に愛したのは「冬の日」だった。死期の迫った主人公の堯(たかし)が、吐き出した血痰を見ても何も感じず、それを無造作につまみ上げる場面を読んだときの静かな衝撃は、今思い出しても鮮やかである。

ラスト、堯は落ちていく冬の日を追うも、その「日」、つまり「生」を捕まえられない。「堯の心はもう再び明るくはならなかった」という末尾の一文に至るまでの箇所では、今でも自動的に涙が出てしまう。燃えるような冬の落日を見ると、駆け出したくなる。もうその時の自分は、堯以外の何者でもない(危ねえなあ、おい)。

 「檸檬」は、白茶けた町の風景から、だんだんと色が増えていくのがよい。読むたびにそう思う。どうしてこんな世界が描けたのだろうと嫉妬する。そして、今ではもうなくなってしまったけれど、何度も見たのに、京都に行くたびに、必ず、モデルとなった八百屋(果物屋)に行ってしまうのだった。檸檬は買わないが。

松阪に行ったとき、その城址には、「城のある町にて」の碑があった。ちょうど、眼下に城下町をのぞむ場所に、それは建てられていた。私は、元気に声を出してそれを読んだ(危ねえなあ、おい)。まったく、よく晴れた日だった。