高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

篠田正浩『美しさと哀しみと』(1965)

川端康成の小説は、かなりの数が映画化されていて、『伊豆の踊子』などは何度もリメイクされているわけですが、けっこう不満が残るものが多い。というのも、私がこの作家をとりわけ愛しており、したがって自然と映画を見る目が厳しくなってしまうせいである。

川端作品は、本来、映像化するのが難しいものであると思う。それは、彼に関する(まともな)研究書が出ていないことにも何かしら関係がありそうである。これはいつかきちんと専門的に論じたいことでもあるのだが、何というか、どれを読んでも「中心」がないのである。つかんだそばから幻のように消え失せてしまう文章なのである。いったいどうやったらこんなの書けるんだろう?

かつて、院生の時分、指導教授と某出版社の人が主催していた月一回の読書会に参加していたのであるが、そこで『雪国』が取り上げられた際、「読みやすかった」というような感想を述べる参加者が多く、私は「ケッ、何言ってやんでえ」と思いながら反論した記憶がある。いや、読みやすそうに思えるけど、実はすごく難しいですよ、この人の作品は。

前置きが長くなってしまったが、この『美しさと哀しみと』は、映画化された川端作品のなかでは出来がよいものだと思う。それはひとえに、加賀まりこという女優の存在にかかっている。

作家の大木(山村聰)はかつて、妻子ある身でありながらまだ少女であった音子(八千草薫)を愛した。音子は大木の子を死産し自殺を計ったものの助かり、現在は京都で日本画家として暮らしている。大木はこの顚末を描いた作品で文壇に地位を築いたのであった。二十年ぶりに大木は京都を訪れ、音子の弟子であるけい子(加賀まりこ)が出迎える。

冒頭は大木のモノローグで始まります。これを見て私は、「ありがとう」と思いましたね。ちゃんと川端康成の世界を拾ってくれて。なんか、小説の書き出しそのままのファーストシーンだったので、うれしくなってしまいました。映像もきれいだし。

登場人物の関係も、『雪国』を思い起こさせるものがある。純粋な美としての駒子、さらにその上を行くやや狂気じみた美としての葉子、本質的に美の秤でしかない島村。それがそのまま音子、けい子、大木に重なります。豊田四郎監督の『雪国』で葉子を演じた八千草薫が、そのまま音子にスライドされたような形になっているのも、面白いと思いまいしたね。

この映画、冒頭から、しっかり川端ワールド全開なのですが、この後どう展開するのかといえば、けい子は音子から大木との関係を聞き、復讐のために一家を破壊する。音子とけい子は同性愛の関係。どちらかというと、けい子がややファナティックに音子を慕っている感じ。

…と書くと、まるでかつてフジテレビ系で13:30から放映されていたドロドロ系のドラマ(『愛の嵐』とか)みたいで情けない。ほんと、川端康成の文学は、あらすじを書くのがバカバカしいほど、細部の積み重ねで成り立っているので、はっきり言って意味ないんだよねー。だから、映画も、その細かいところを存分に堪能すればよいわけです。

たとえば、和宮の墓を暴くエピソード。音子が鳥籠を蹴るシーン。大木とけい子が結ばれたと知った音子が、嫉妬のあまり、青を基調とした嬰児の絵に赤い絵の具を塗るところ、これ、血のように絵の具が垂れて、色のコントラストがすごかった。

そんなエピソードにも満たないようなイメージの連なりを、原作を読んで映画化したいと思う人は、決して少なくはないでしょう。しかし問題は、何と言っても登場人物なのである。実体があるようでないような、そういう演技ができる女優を使わないかぎり、川端康成の世界を映像にするのは無理です(キッパリ)。

そういう意味で、加賀まりこは素晴らしかった。彼岸と此岸のあわいに立つような、それでいてたしかな存在感がある、というのは…。彼女の登場って、日本映画のなかでも画期的だったんじゃないかと思います。その非日常性が、川端康成の世界に合ってるんだよなー。

それに比べて八千草薫はあまり感心しませんでした。何がって、いちばんは、同性愛の感じが出ていないのです。そりゃあたしかに、音子は今でも大木を愛していますよ、ええ。美人ではあるんだけど、結局、資質の問題なのだろうか。 加賀まりこは、狂的な部分も、同性愛も、ちゃんと演じきっていた。現実の性的志向がどうかということではなく、潜在的に秘めているものというか。

 いささか論理が飛躍しますが、表現者たるもの、両性具有(バイセクシャル)的であることこそ、本物だと私は思っています。

ところで、ものすごく感心したシーンがひとつ。けい子が大木に抱かれるとき、右(ごめんなさい、左だったかも)の乳房はだめ、みたいなことを言うんですが、そこが彼女にとって非常に大事だってことはつまり、音子に捧げているということなんだよね(なぜそれを捧げているかということについては、察してください)。

これぞ、川端康成のロマンティシズム、そしてエロティシズム。『雪国』で島村が駒子に、「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と言って、人差指だけ伸ばした左手の握り拳を突きつけるあの有名な場面と同じ。ほーら、やっぱり細部なんだ、面白いのは。