ルネ・クレール監督のこの映画は、長らく私のベストワンだった(では今は何か、と言われると、ちょっと出てこない)。
なけなしの小遣いをはたいて買った、初めてのビデオテープでもある。
この映画に関しては、映画そのものだけではなく、まったく、いろいろなことがとりとめもなく思い出されるが、私にしてみれば、そういうものがいい作品である。
化学は出来なかったが、構造式を見るのは大好きなので、あんなふうに、何かが連鎖反応のようにつながっていくのを感じることは最大の快楽なのです。
以下、『巴里祭』の断片的な思い出。
ある日、リス・ゴーティの主題歌「巴里恋しや (A Paris dans chaque faubourg)」)を、『懐かしの映画音楽』みたいなオムニバスCDで見つけたときは小躍りしました。本気で覚えたかったもんですから。
さっそく買って家に帰る。
震える手でセロファンを剥がす。
CDをラジカセに入れる。
再生ボタンを押す。
…………。
この時の失望を何と表現したらよいのだろう。私の欲しかった「巴里恋しや」は、映画どおりの「合唱」だった。しかしこれはリス・ゴーティの歌だった。いや、決してリス・ゴーティが悪いわけではないのだが、その後、どんなに探しても、合唱の「巴里恋しや」はなかった。
なお、後年、川端康成の『山の音』を読んで、ヒロインの菊子が、リス・ゴーティのレコードに合わせて歌う、という場面に出くわし、私のなかの構造式はひとつ増えることになる。
もうひとつ。
その時に真っ先に思い出したのも『巴里祭』だった。
考えてみれば同時代ですもんね。
音楽も美術も、カメラワーク、反復の楽しさ、その他いろいろ、ほんとに素晴らしいんですけれど、この映画の良さは何といっても、シンプルでわかりやすいということ。
お互いに好意を寄せながら、顔を合わせれば反発し合う若い男女。近づいたと思ったら昔の女の登場。すれ違い。仲直り。
ハナシの筋だけだとこれだけ。
出てくる人たち、みんな普通。
だけど、普通ほど難しいものはない。
主演のアナベラは、「可憐」という言葉がぴったりで。普通の役を普通に、かつ印象深く演じるというのは、実は結構難しいのではないかと思うのですが、このアナベラは普通も普通、ザ・普通で、私はのちに『地の果てを行く』を観た時は、びっくり仰天したものでした。