高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジュリアン・デュヴィヴィエ『地の果てを行く』(1935)

いやー、すごい映画を観ちまったぜ……。

単純な筋なのに、ものすごいドラマティック。しかも飽きさせない。ひとえに、俳優の演技力、存在感、そして映画ならではの編集方法に尽きる。

まず、冒頭からやられた。

人を殺してきたピエール(ジャン・ギャバン。若い!しかしカッコいい。カッコよすぎる。セクシーという言葉がぴったり)に、酔っ払った女がぶつかり、絡む。立ち去るピエール。その後、女が、白いドレスに付いた血に気づき、叫ぶ。その背景の夜の黒が、コントラストを際立たせるため、最大限に〈黒〉にしてある。

ピエールは外人部隊に入る。そこで出会うミュロ(アイモス。この人、『巴里祭』で出てくる小悪党の子分役をやっていた人です。笑えた。ここではピエールの親友になる、めっちゃ気のいい奴になってる)とリュカ(ロベール・ル・ヴィガン)。ピエールを追う目的で入隊したらしいリュカ、二人の間に憎悪の火花が散る。このリュカが悲しいほど巧い。憎たらしいことこの上ないのである。

さて、ピエールは、酒場のベドウィンの女、アイシャ(アナベラ)と一瞬で恋に落ちる。恋とはするものではなく、落ちるものなんだなあとわらためて思う。ほんとに、恋に「落ちる」というのが、これほどわかりやすく映像化されていると、清々しいですね。視線が絡みつく、たったそれだけ。まわりくどいセリフも行動も一切なし、そう、これなんだよ!

タイトルクレジットではアナベラがトップですが、しかしチョイ役と言えばチョイ役で、基本的には「男」の映画です。男同士の関係が濃密である。今、これ書いてて気づいたけど、深い意味で、たぶんこの私の見方は間違っていない。他の映画もそうだった気がする。ちゃんと調べよう。

そういや、『望郷』のペペのギャビーも一瞬で恋に落ちたよなあと思いながら、しかしアナベラの存在感はすごい。あの、『巴里祭』の可愛らしいお嬢ちゃんはどこへ行ったと思うぐらい、女優なんだと感じ入る。アイドルだと舐めていました。すみませんでした。

さて、一時姿を消したリュカが再び部隊に姿を現す。反目し合ったまま、二人は死の戦線へと出ることに。

ここからがすごい。24人の志願兵は、極限状態の中、次々に死んでいく。ミュロも死ぬ。残されたピエールとリュカ。ここで二人に友情が生まれる。と思ったのもつかの間、ピエールは撃たれて死ぬ。ピエールを抱きとめて絶叫するリュカ。そこに援軍が来る。

ここから号泣。なぜそんなに泣くんだ私。

一人残ったリュカが、援軍の上官に報告する。名前が読み上げられるたびに、「戦死!」と答えるリュカ。人間ドラマって、こういうものなのか、と思う。それにしても、ここで映画を終わらせればよかったのに。ピエールの戦死をアイシャに伝えに行くリュカ、このラストは蛇足。アナベラを出さないとだめだったの?という大人の事情が見えたり、メロドラマに仕立てなければならなかったのか?と思ったり。

構図がいちいち凝っている映画。同時代のジャック・フェデーと、デュヴィヴィエと、どっちが好みかと言われたら、デュヴィヴィエなのかな、動きが多いし。そしたら私の小津好きって何なんだ?などといろいろ考える。こういう時間がいちばん楽しい。

でも、同じ外人部隊ものなら、フェデーの『外人部隊』の衝撃の方が大きかった気がする。なんせあれはわがフランソワーズ・ロゼエと、マリー・ベルが出ていましたからね。つまり、あれは「女」の映画だったのである。その意味で、この二作の比較は面白い。