高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ジュリアン・デュヴィヴィエ『舞踏会の手帖』(1937)

今さら語るまでもなし、の名作なのですが、この映画、私にとっては常にベスト10に入るものであります。いまだにそれがうまく言語化できない。いまだに断片のまま。

それにしても、ちょうどこの時代、デュヴィヴィエ、ルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジャン・ルノワールという監督を抱えていたフランス映画って、やっぱりすごかったと思う。

『舞踏会の手帖』は、未亡人となった中年のクリスチーヌ(マリー・ベル。とにかく貫禄がすごい)が、ぽっかりと空いた時間を埋めるために、かつて舞踏会にデビューしたころ、自分に愛を囁いた男たちを訪ね歩くという、オムニバス形式の映画なのですが、このたび、何年、いや、何十年ぶりに観たのだろうか。年を取った分だけ、感銘深し。130分という長さなのに、一瞬も飽きさせない手腕。むしろ、次はどうなる、のワクワク感を、「静かに」(ここ重要)持続させる。

そして、フランス語が、まぎれもなく、話されるためにある言語であると痛感する(これ、ちょっと蓮實重彦の受け売り)。それは、俳優を通して立ち現れる。詩や演劇の伝統が支えている言語。セリフが物語を作っていく。映画なのに、映像を忘れる瞬間がある。

マリー・ベルの、語らずに幻滅を見せる演技。クリスチーヌへの愛が実らず自殺した息子を持つフランソワーズ・ロゼーは、もはやホラーより怖い。ルイ・ジューヴェの悪人ぶり。ヴェルレーヌを口ずさむようなインテリの悪人をやれる人って、日本では森雅之ぐらいか?

で、前に観た時もそうでしたが、もぐりの堕胎医で、美しからぬ年上の情婦と同棲しているピエール・ブランシャールが私は好きです。記憶のなかでは、彼の暮らす部屋の窓の外に広がるクレーンと、そのやかましい金属音のことがすごく印象に残っていたのだけれど、今回もそうだった。このエピソードでは、ほぼ一貫して画面が傾いているのですが、これ、部屋が傾いているということだったんですねえ。私の記憶では、狂気が現実を歪んだものに見せている云々で解釈されていました。つまり、そこだけなぜかシュールレアリスムになっていた、と。

でも、ほんとは、どのエピソードもいいんですよ。これはすごいことだと思う。見事に穴がない。普通、どっかで手を抜くだろ、とも思うのですが。これ、出演した役者の皆様方、演じ甲斐があっただろうなー。

神父になっている元音楽家。山のガイドとして生きる元詩人。女中とこれから結婚式をあげるという町長(どうでもいいですけど、この方の「元会長会会長」という肩書には笑いました。字幕だったけど。これ、フランス語だとどう表現されているんだろう。)。娘にクリスチーヌと名付ける美容師。そして姿を現さない唯一の想い人。ずっと湖の対岸に住んでいたことも知らず、わかった時にはすでに死んでいる、というお話。

デュヴィヴィエのすごさは、フランソワーズ・ロゼーおばちゃんの挿話を、いきなり初めに持ってきたことに、端的に表れている。ドアを開けた瞬間に顔面にパンチを食らうようなもんだ。普通、あんなすごい話をいきなり持ってきます?凡百の監督なら、最後とか、中だるみを引き締めるようなポジションに持ってくるはず。

時間の冷酷さとか、幻滅を、ロマンチックに描くという昔の映画はすげえ。甘い、苦い、甘い、苦い……と感想が無限ループになる。さすが小説を生んだ国。そして演劇の国。思えば、この映画を初めて見たとき、マリー・ベルやフランソワーズ・ロゼー、ルイ・ジューヴェのことが知りたくて知りたくて、コンセルヴァトワールとか、コメディ・フランセーズとか、一所懸命名前を覚えた懐かしい記憶があります。フランスという国は、私にとって、映画を抜きにしてはあり得ないのです。