どこかでも書いたが、清水宏は、即興の天才肌という感じで大好きな監督である。緻密に練り上げられたドラマというやつも、それはそれで好きなのだが、疲れているときは少々こたえる。そんなとき、清水宏の作品を見るとほっとする。油絵だけじゃなくて日本には墨絵もあるよ、みたいな感じ。
清水宏は松竹だったけど、これもいわゆる大船調だ。原作は尾崎一雄。タイトルに見覚えがあると思ったら、そうでした、尾崎一雄の、林芙美子への追悼文だ(だから初出は彼女が死んだ1951年)。
いちおう私(高山)は『林芙美子とその時代』という著書があります。慌てて本棚から資料を引っ張り出して来てざっと読んだら、「なめくじ横丁」の後日談なのだという。映画にも、林芙美子は出てきました。主人公夫婦が転がりこむ家の学生は檀一雄がモデルになっている。
しっかし、何とも味のあるタイトルじゃありませんか。各方面における最近の無駄に長い題名、あれは、いろいろ説明しないとわかってもらえない(のではないか)という不安の表れだと私は思っているんですけどね。で、結局核心からは遠ざかる一方。かたや、想像させる余地を残した短い題名。かつての日本では、送り手と受け手とのあいだに、今よりも強固な信頼関係があったのだと思います(もたれ合いという面もあるけど)。
どら焼きが食べたくなる映画。妻が好きな食べ物はどら焼き。冒頭、夫婦は時計を質に入れてまでどら焼きを買う。いやはや。後半、妻がのど自慢に出演、その賞金で買うのもどら焼き。まったく、どら焼きにこんな価値が与えられているなんて、藤子・F・不二雄先生はご存じだったのでしょうか。
それにしてもいい夫婦である。こんな妻をもらった作家は幸せだ。文士は、つくづく、「女」に育てられたんだなあと思う。そういう生活が、映像になっているというのは、小説を読むのとはまた違った新鮮さがある。深刻なインテリゲンチャでもなければお定まりの喀血もなし、どこまでものんきな感じなのがまたよい。
映画自体は、それほど出来がいいわけではない。たとえば、はじめの方に出てくる妻の知人の大学生。夫はちょっと妬く。でもこの男、それっきり登場しない。あらら……という感じ。しかし、いかんせんセットなんかも丁寧に作ってあるので、見ていてそれなりに楽しいのだ。
それにしても、私は、本当に喜劇が好きらしい。
林芙美子に、ラジオはいらないかと言われ、主人公は意地を張って断る。その手前、持っているところを見せなければならない。そこで彼は、古道具屋からわざわざハコだけで中身のないラジオ(中身があるとそれだけ値が張るわけです)を買う羽目になる。
また、首つりのあった家に住むことになる主人公一家。問題の梁をじっと見つめる。擦れたような跡があるのが何ともリアル……と思いきや、ここがブランコをしたところか、とのんきなセリフを吐く。この主人公は貧乏なので、ついつい妻が出産した病院に半年も居座り続けてしまう。なんとまあのんきなことよ。そしてこの厄介者であるはずの一家の引っ越しを手伝わされる病院の事務長、あんたも数本ネジが外れているぞ。
夫は、妻ののど自慢出演も、その放送を偶然聴いて知る。まったく、どこまでものんきなのである。