私は黒澤映画のよい観客ではない。
基本的には、ちまちま、うじうじとした作品――よくいえば、微細なものにこだわっているような映画が好きなので、それは西部劇があまり得意ではないのと同じ理屈だと思う。
生命力に乏しいので、エネルギーに満ちあふれている映画を観るには相当の覚悟がいる。そういえば私のいちばん好きな小津安二郎は、映画にはオクターヴがある、黒澤明や溝口健二は高く、自分や成瀬己喜男は低い、というようなことを言っていた。納得である。
そんなわけであるから、黒澤映画を観ようと思っても、まず一回目は必ず挫折し、二回目に挑戦したらまだいい方、さらにそれで最後まで観ることができたら御の字、ということになる(私の根気のなさは筋金入りで、名作と言われる『また逢う日まで』もすでに数回挫折したままである)。
この『天国と地獄』は、幸いにして二度目で無事に観終わることができ、しかもかなり面白い作品として私のなかに残った。きっと私は、この先、小賢しく言うであろう。
「いや、『天国と地獄』はいいよ。え、観てないの?」
この作品の一番の魅力を独断と偏見丸出しで言えば、山崎努と仲代達也がカッコよすぎるということに尽きます。
とくにこの作品での山崎努は半ば伝説と化していて、私は実際に観て、その伝説が寸分たがわぬものだと知りました。
山崎努がらみの場面は、それだけで独立して物語をつくれるのではないかと思うぐらい密度が濃く、まあ昔の映画は贅沢だなあとつくづく思う。
そしていつの間にか観客は、同情するどころか、彼が捕まらないことを祈るような気持ちにさえなってしまうのである。不思議。
山崎努を追い詰めるのが、これまた理知的、こんな上品な、非の打ち所のない刑事はいないだろという仲代達也。山崎努の「悪」、汚れ役と対比させるため、極限まで漂白したような抽象性を持つ。正義感とか、純粋性とか、そういうものじゃない、まさに「白」としか言いようがないもの。
ドストエフスキーの『白痴』を映画化した黒澤明だもの、そりゃあ、そういう、対照的な人物の配置というのを考えていなかったわけがない。社長である三船敏郎と、貧しい学生に過ぎない山崎努の対比よりも、私にはこっちの方が数倍面白い。
物語の重要な舞台、伊勢佐木町かと思われる、横浜の麻薬中毒患者の巣窟、負のエネルギーが充満していて、私は好きです。 猥雑で、エネルギッシュで、横浜に住んでいるからというわけではありませんが、とにかくこの横浜のシーンが、私は一番好きです。
横浜って、何なんでしょうね。昔、寿町に迷い込んで、そこからみなとみらいのランドマークがすぐそばに見えたときの衝撃。道一本隔てただけの、そういう落差を、私は愛しています。