高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉の快楽③ 視覚型と聴覚型

若干思うところがあって、100冊ほどもあった日記について、研究に関する記述だけを切り抜いて他は処分することにした。最初に日記をつけ始めたのは2006年ぐらいなのだが、そのほとんどは恋愛関係を筆頭に苦悶の表情に充ちている。コンテナ1個分になるような膨大な日記を、引越しのたびに持ち歩いて来たのは、過去への、そして不幸への執着以外の何ものでもないと思った。もう、私は過去に縛られる必要も、宿命に流される人生もいらない。幸せになるのだ。なってやる。

というわけで、日記の整理をしているのだが、たまに面白い記述にぶつかる。当たり前だが、自分の関心がほとんど変わっていないのだ。この「言葉と官能」についてもそうである。昨日は、「エロさとかわいさとせつなさについて」長々と考察している箇所があった。そう、この三位一体?に、私はめっぽう弱いのである。そしてこれを自分なりに言い換えると、死が透けて見えるような、強烈な、激しい生に貫かれている人間、あるいは事物に接したときに、どうやら私は欲情するらしいのである。

そこでふと思い出したのが、視覚型人間と聴覚型人間ということだった。

これは大学院のゼミで話題になったことなのだが、文学者はだいたい視覚型と聴覚型に分かれる。絵画的か、音楽的か、と言ってもよい。たとえば俳人でいうなら、与謝蕪村の俳句は視覚型であり、松尾芭蕉は聴覚型である。視覚型は空間把握に優れており、聴覚型は時間の推移、たとえば季節の移り変わりなどに敏感だ。小説だと、書き出しにそれがよくあらわれている。見ること、たとえば場所の描写から始まるか、聞くこと、つまり記憶、時間などなのか。なお、これは必ずしも視力や聴力とは関係なく、あくまでも感受性というか、感覚の問題である。

さて、ここで、これを読んでくださっているあなたに問う。あなたは、見ることに欲情するだろうか。それとも聞くことに欲情するだろうか。ひとを好きになるとき、見た目から入るか。それとも声を重視するか。美術と音楽、どちらが好きか。見ることと聞くこと、どちらが失われるのが怖いか。

私はどちらかというと視覚型の人間である。現実が辛くなると、よく、「目が腐る」と思う。そしてその目を喜ばせるものには、何にでも欲情してしまうから困る。ひとはもちろん、絵や写真、風景、イルミネーション、コンクリートのビル群、何から何まで。これがまちなかだと大変困る。涙を流して頬ずりしたいような気持にさえなる。美術館などはもっと大変である。その絵に触れたい。口づけたい。もはや変態である。

言語表現は、あくまでも想像の領域に入る。それは言ってみればつまり、直接、視覚や聴覚に訴えるものより、はるかにエロいのである。だから私は文学をやっているのだろう。文学者というものは、本来、ヤクザ者であって、実は犯罪者や変質者に近い。

ちなみに、私は、恋人の目がいちばん好きである。まったく、せつないことこのうえない。一方で、はっきりと聴覚型の恋人は、私の声をよく褒めてくれる。かつて教え子に「山賊みたい」と言われた声を。って、これは、ただの、のろけ。