高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

つらつらと、暴言も含めて

大学で、近代文学を教えている。授業で話すことはもちろん用意して臨んでいるが、しゃべりながら、ふと、気づくこと、解ることも、たくさんある。きょうも、そうだった。

文学と空間(土地や場所)をテーマに、さまざまな作品の「描写」の部分を資料にし、解説を交えながら読んでいたときのこと。学生さんからしばしば聞く、「近代文学は苦手」という大きな理由のひとつが、この、密度のある、長い「描写」に耐えきれないのではないかということにあるのではないかと思ったのである。

日本の自然主義文学は、描写論と共に発達した。近代は、「描写」こそ、作家の腕の見せどころであった。しかし、現代は違う。物語を動かすのは、主として会話である。この流れは、おそらく、村上春樹あたりからではなかろうか。

近代と現代の文学を分つものは何であろうか、というのは、常日頃から考えているが、きょうは新たにこの「描写」の存在が加わった。

話は変わるが、最近の、共感するか否かが重要だという読みの風潮に、わたしは基本的に反対である。これは国語教育にも関わることだ。時間、空間といった、作品の構造を把握する読みを鍛えなければ、文学作品深く理解することはできないのではないだろうか。

共感というのは、確かに聞こえはいい。だが、なぜ、こうも、薄っぺらな匂いがするのだろう。共感。そんなに簡単にできるものなのか。それなら、なぜ、みんな、さみしそうなのか。拒絶。違和感。疎外感。近代文学のテーマは、死んでしまったのだろうか。それならわたしは、ひとりでも、近代文学の火を絶やさぬように生きるだろう。大真面目な話。

学生さんに、好きな漫画やアニメ、ゲームなどについて聞かれることも多い。わたしは最近では専ら、「もはやわたしは死んだひとにしか興味がないんだよ。ごめんね」と答えることにしている。