高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ロバート・Z・レナード『ダンシング・レディ』(1933)

本日5月10日は、私の永遠のアイドル、フレッド・アステアの誕生日であります。1899年の今日、彼はこの世に生を受けたのでありました。

さて、なぜ私はこんな今では誰も観ないような映画を見たのか。何のことはない、フレッド・アステアの映画デビュー作だからである。なお、アステアは本人として登場している。

いやー、これを見ると、フレッド・アステアジンジャー・ロジャースのコンビが、どれだけすごいかがわかる。稀有の一体感。こんな組み合わせ、後にも先にもどこにもありゃしない。

主演のジョーン・クロフォードが悪いわけじゃない。この人、やっぱりすごい女優だと思う。実は私、好き嫌いを超えてずっと心に引っかかっている存在なのであります。毀誉褒貶すさまじく、その生涯をざっと見渡しても、この人ほど叩き上げ感がすごい人も珍しい。演技うんぬんよりも、女として、いや人間として、貪欲なまでにスターの座を追求したというような印象を受けます。

お話は、いわゆるバックステージもの。主人公のジェニー(クロフォード)は場末のダンサー。半裸で踊っていたところを警察に検挙される。舞台を見ていた金持ちの青年トッド(フランチョット・トーン)は彼女を保釈させ、生活の援助をしようとするが、ジェニーは純粋にダンサーを目指すのだと断る。

この食事のシーンだけでも、ああ、ジョーン・クロフォードすげえやって思います。あのですね、ものの食べ方に品がないんですよ。貧しい踊子の姿が鮮やかに浮かび上がる。

ジェニーは奮起し、ようやくレヴューの舞台監督であるパッチ・キャラガー(クラーク・ゲーブル)一座のコーラスガールになり、一方でトッドには舞台で成功しなかったら結婚することを約束する。パッチはジェニーの才能を認め、しだいに惹かれあうようになる。

まあ、よくある話で、この後、トッドが密かに一座の後援者になって札束で人の顔を叩くようなことがあったり、公演が中止の憂き目にあったりするんですが、めでたくジェニーは主演女優として成功し、パッチの愛も手に入れる。

この映画、とにかく大恐慌時代の世相を反映しています。当時の貧困層と富裕層の差がすごい。劇中で歌われる歌も、ほとんどが元気を出せ系なんだよね。きっと、わずかなお金を握りしめて映画館に通った人たちがたくさんいたんだろうなあ。そう思うと、自動的に涙が出てしまうわたくし。

ジョーン・クロフォードが間違いなくスターなんだ、と感じるのは、コーラスガールの一員から主役に抜擢されたときです。センターに立った瞬間、まるで違った人に見える。あと、ハスキーな声がよろしい。

アステアは当時すでに映画界の大スターだったジョーン・クロフォードとの共演を喜び、彼女は彼女で、これまたブロードウェイの大スター、フレッド・アステアとの共演をこよなく喜んだと語り伝えられていますが、さてそのアステアの登場シーン。

……硬い。

どうしたんだフレッド、いくら映画初出演だからって、あの、ジンジャーと一緒のときに見せる笑顔はどうしたんだああああ!

ダンスのレッスンのシーンも、あれ? 心なしか腰が引けているような…。クライマックスのレヴューの部分は、さすがにアステアでしたけども。私はこの映画を見終わってから、あわてて『空中レヴュー時代』を見直しましたよ。『空中~』は、アステアの映画出演第二作目であり、ジンジャー・ロジャースとの初共演となった作品。

……しっかし、恐ろしいぐらいに呼吸が合っているな。

二人がしゃべっている場面だけでも、すでにもう何年もコンビを組んでいるような。「キャリオカ」のナンバーで踊るシーンの一体感、楽しそうな顔、そして色っぽさ。何でしょうか、お互い、気を許している感じ? 

 ジンジャーは全作品、どんなダンスでもフレッドには100%安心して身を預けているし(人はここまで他人を信じられるのかというレベル)、シャイで有名だったフレッドは、ジンジャーだからこそ気安く、という感じなのである。

いやはや、あらためて、参りました。

はたして私は、死ぬまでに、この二人のすごさを、言葉で表現しつくすことができるであろうか……。言わなきゃ死にきれない。でも今はまだ言えない。好きすぎて。