高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

木下惠介『善魔』(1951)

映画の内容とはまったく関係のないところから反省。しばらくアニメばかり観ていたとはいえ、『ニノチカ』以来(日記によれば約5か月ぶりである)の映画鑑賞とは、いくら何でもひどすぎる。

だから、久しぶりの、モノクローム&昭和な世界が、ひどく懐かしかった。映し出される会社の風景、駅のプラットホーム、登場人物の住むアパート、古いけど、おしゃれ。モダン。

しかし、映画の内容はひどかった。たぶん、おケイちゃん(淡島千景)の今まで観た映画の中でも最悪の出来。

つーか、メロドラマ合わねーんだよ。動かせよ!動きが絶妙にキレイなんだから!あと、啖呵切らせろよ。江戸っ子なんだから。おきゃんなイメージを全く出さないってどうよ、え?デビュー2年目だから仕方ないとは言えさ。

失笑、噴飯もののシーン多々あり(ごめんなさい)。森雅之の回想シーン。学生時代の森とおケイちゃん。学生服の森雅之は、ない。伝説の、『この子の七つのお祝いに』における岩下志麻のセーラー服姿を思い出す。あのね、池部良じゃないんだからさ。

これは三國連太郎のデビュー作で、この役名がそのまま芸名になった。良くも悪くもすごい存在感。演技は下手。オーバー。完全にまわりが食われている。というか、バランスを破壊しまくっている。バランスを考えない、つまり「受け」の芝居が出来ない役者はチョト苦手。

結局、この人と、桂木洋子(かわいい!声もかわいい!)のラブストーリーと、森&淡島のラブストーリーが交錯するわけだけど、かたや若さと純粋さ、かたや大人のしたたかさとずるさ、という対比になる……はずだったろうに、如何せん三國が狂気じみているので、「おいそりゃねえだろ」とか、挙句の果てには「人って、恋って、一筋縄ではいかないよ」と説教さえしたくなる按配である。

つまりまったく共感できないのである。

最後、桂木洋子は死にますが、三國はオトナの二人をなじります。筋違いもいいところ。「もう、あの魔性の声を聞いたら、あたくしたち、一緒になれないわ」というおケイちゃんのセリフも、どうしてこの人にこんなセリフを吐かせたのかと、何やら怒りを通り越して恥ずかしいやら悲しいやら。

そして、野辺送りのとき、森は一人去り、その姿をおケイちゃんはただ見つめている。「姉さん、いいんですか?」という連太郎。

そこで全力で突っ込む。

「オマエだよ! オマエのせいなんだよおおおおお!」

一つだけ、感心したシーン。森がおケイちゃんに会いにいくところ。東海道線のプラットホーム。森の眼には迷いがある。列車が入って来る。列車にカメラが向けられるが、それは森の視線に擬したものになっている。それまでの流れで。

その、夜の列車、車体の暗さと、車内の明るさ。その窓の車内に森の姿。座席に腰掛ける。おっ、と思った。鮮やかな切り替わり、映画的な手法そのもの。

森雅之が視点人物から客観的な登場人物へと転換する。小説で言うなら、主観的な描写から、客観描写へ。さすが木下惠介だと思いました。