高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

好きな音について

音というのは記憶とは切っても切り離せないものである。好きな音、ということは、イコール、良き記憶なのである。

  ①踏切の音

子どもの頃から電車が好きだった。それにまつわる小道具はなお好きだった。当時、きっぷはひとつひとつ、改札ではさみを入れてもらうものだった。父から、はさみの跡は駅によって形が違うと教わった時、私は日本中のすべての駅のきっぷを集めたいと本気で思ったことである。

そんなわけで、踏切の音が好きである。特に夜の音がよい。侘しくもの悲しい。物理学的に、夜は、音が良く聞こえるものだと聞いたときはうれしかった。田舎の線路で、ごくたまに鳴る踏切の音もよい。田舎の踏切では、なぜか音が大きく聞こえる。余計な音がないというのは、幸せである。

私は汽車を知らないはずなのに、幼い頃、祖父方父母の家に泊まりに行くと、その夜は決まって、近くの駅から汽笛が聞こえた。私はその頃から寝つきがたいそう悪かったから、やたらとその記憶ははっきりしている。あれは何だったのだろう。

  ②風渡る草の音

田舎の夏はなぜあんなに健康的に暑かったのだろう。都会の暑さは不自然である。田舎は暑さとか湿度とか風とかが、きちんと調和を保っている。

幼いころ、夏休み、田舎の祖父母の家へ行くと、午後は昼寝の時間と決められた。農家の朝は早いから、午後の一番暑い時間帯は、昼寝をするにかぎるのである。二階の部屋の畳に枕だけ並べて、三人きょうだいが川の字になって寝た。……のは妹と弟だけで、やはりここでも寝つくことができない私は苛々と寝返りばかりうっていた。

そんな時、明け放した窓から、稲が風になびく音が聞こえる。起き上がって外を覗く。稲は、風を受けて細かく蠕動し、絶え間なく色を変えている。そんな光景を飽かず眺めていた。

これに派生して、木が風にそよぐ音も好きである。

京都の化野に、見事な竹林があった。風にそよぐ竹の音は今もはっきりと覚えている。

  ③雨の音

休みの日、目が覚めて、雨が降っていると嬉しい。ふとんのなかで聴く雨の音はそれだけで幸せになる。今日は何もできません、しなくてよいというのを、天からも許された感じなのである。顎のあたりまでもう一度ふとんを引き上げる。

台風の日、強風で窓に叩きつけられる雨の音もよい。窓が壊れるんじゃないか、家が吹き飛ばされるんじゃないか、しかしすごい音だ、ニュースでは大型と言っていたけどなるほど本当だ、などと、不安なのか喜んでいるのかわからない落ち着きのなさで部屋をうろうろする。永遠に去って欲しくない瞬間でもある。

雨どいが壊れていて、雫の垂れる音が変なリズムであったりするのもよい。トタン屋根の雨音はもはや文化遺産である。

子どもの頃、雨の日のプールが好きだった。プールサイドで体育座りをし、先生の諸注意を受ける。その声は遠かった。私は一心に水面に打ちつける雨の音を聴いていた。シャワーと似ているのに、どうしてシャワーの音と雨の音は違うのだろうか。などと考えながら。

一時期、クラシックに凝ったことがあって、私はそのとき、いかなる楽器も、生命あるものを人工に模すために作られたことを了解した。ピアノの音は雨の音であり、何より涙だった。