高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

マックス・オフュルス『輪舞』(1950)

原作はシュニッツラーなのですが、なんとまあ、ものすごく凝った戯曲。「恋愛」(情事)のありとあらゆるバージョンが詰め込まれている。いやーたまげた。

舞台はウィーン。10人の男女が登場する。それぞれの情事の相手が順繰りに入れ替わってゆき、最後に登場した伯爵と最初に出てきた娼婦との組み合わせになって、「輪舞」が完成するという構成。こんな感じ。

娼婦(シモーヌ・シニョレ) ⇔ 兵士(セルジュ・レジアニ) ⇔ 小間使い(シモーヌ・シモン) ⇔ 雇われ先の若い息子(ダニエル・ジェラン) ⇔ 人妻(ダニエル・ダリュー) ⇔ その夫(フェルナン・グラヴェ) ⇔ 若い娘(オデット・ジョワイユ) ⇔ 詩人(ジャン=ルイ・バロー) ⇔ 女優(イザ・ミランダ) ⇔ 伯爵(ジェラール・フィリップ) ⇔ 娼婦(シモーヌ・シニョレ

原作では、主に男女二人の会話が中心になっていて、いざその場面、となると舞台が暗転するらしい(何と艶めかしい。見たい!)が、そこは映画、アントン・ウォルブルック演じる狂言回しが登場し、それぞれのエピソードをうまくつないでいく。

それぞれの俳優の演技が素晴らしい、というか似合いすぎ。ハマりすぎ。とくに、シモーヌ・シニョレシモーヌ•シモン、ダニエル・ダリュージャン=ルイ・バロージェラール・フィリップ。有名どころばかりですみません。でもやっぱり違うんだよこの人たち。

しかしながら、わたくしがこの映画で何より感動したのは、ある時期のヨーロッパでは、「恋愛」(情事)が人間としての立派な「仕事」であった、ということを、まざまざと見せつけられたからなんですよね。

これにかぎらず、詩、小説、戯曲、もちろん他の映画でも、恋愛至上主義みたいな作品は無数にある。でも『輪舞』は、恋愛(情事)がもはや人としての「たしなみ」という域にまで達している、と言ったらいいか。上記の男女の組み合わせを見てもわかる通り、身分の違い、年齢差、姦通、夫婦(他には、現実と理想のギャップとか)など、古今東西、繰り返し描かれて来た典型的な男女の恋愛(情事)で構成されている。しみじみ、「恋愛」は「文化」なんだなあと思いました。

……なんて書くと何やら難しそうですが、実際は、ここに出て来る人たち、相手とよろしくやることしか考えておりませんので、そのバカバカしさとかリアリティには、しばしば爆笑いたしました。

たとえばD・ダリュー。最初は度が過ぎるぐらい貞淑だったのに、若い男と一線を越えると妙にふてぶてしくなる。そしてこの相手の男、青少年らしく色っぽい小間使いに欲情し、めでたく童貞を捨てるが、念願かなってついに恋する人妻と……のときは失敗し、すっかりいじけてしまう。

D・ダリューの夫は町で若い娘を誘惑し、大金を使ってめでたく自分のものにしますが、悲しいかなこのおじさん、あっさりふられてしまいます。高級レストランでいつまでも待たされる。娘は来ない。給仕が閉店を告げる。寂しげな笑みを浮かべて、はいお勘定。

ジェラール・フィリップ演じる伯爵は、妖艶な女優にきわめて紳士的かつナイーブな恋心を寄せていたのに、女の方からあっさりベッドに引きずり込まれ、深く傷つきます。なお、この女優の寝室の天井、一面鏡張りでした。