高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

忘れられない生徒ーー随筆のような、小説のような

私は、東日本大震災の直後、縁あって福島県のある私立高校に、専任教諭として勤めることになった。赴任早々、間もなく入学してくる1年生の担任をすることになった。これには驚いたが、さらに驚いたことには、そのクラスの生徒の人数は4人、しかも男子は1名だという。少人数教育を売り物にしている特別進学コースであるということもあったが、震災の混乱が尾を引いていることは明らかだった。

入学式、私がいちばん気がかりだったのは、当然、このたった1人の男子生徒のことだった。――彼は、晴れがましい入学式に参加しているとは思えないほど、ばつが悪そうに大きな体を小さくして、うつむいて座っていた。

彼は、山あいの小さな集落から、片道1時間半のバスに乗って登校していた。人口の少ない、町というよりは村で生まれ育った彼は、少人数の学校には慣れているようだった。遠距離通学にも愚痴ひとつこぼさず、おっとりしていて、学力も、平均以上に高かった。しかしながら、彼はなかなか手のかかる子だったのである。

忘れ物が多い。肝心なところでミスをする。整理整頓ができない。何より、人とのコミュニケーションがまったくといっていいほど取れなかった。夏に、財布を忘れて飲み物が買えないことを言い出せず、そのまま体育の授業に出て、熱中症になってしまったこともある。

最初の三者面談のときも、彼は一言も発せず、話すのは母親ばかりで、時折、彼を見ては、シャツの襟を直してやったりしている。私は、これはまずいな、と思った。すでにクラスの女子は、あれこれ彼の世話を焼いていた。もじもじする彼を見かねて先回りをしてしまうのである。

厄介なことに、彼は、助けられるたびに、嫌なことから逃れられてほっとするのと同時に、自己嫌悪に陥っては自信をなくしていくのであった。思いがけなく本人が話してくれた、小学校でいじめを受けていたことも、第一志望の高校に落ちたことも、それに拍車をかけていた。

3年間、担任が持ち上がることは、すでに自明のことだったので、私は、彼に関しては、卒業までに自信を持たせること、自立させることにすべてを賭けようと決めた。私の担当教科は国語だが、授業に限らず、とにかく、数多くの話す場と書く場を設けた。今思えば、それは彼のためだったというより、私自身のためだったのかもしれない。とにかく彼のことが知りたかったのである。この過程で、私は、彼が、論理的な文章を書くことに非常に優れた力を持っていることに気づいた。

一対一の面談も、頻繁に行なった。彼が口ごもって、20分以上、沈黙が続いたこともある。だが私は、答えを先取りすることもせず、「もういいよ」とも言わず、ひたすら待った。彼が、そう言われることでこの場から逃れたいと思っていることがわかっていたからである。まったく、それは、無言の戦いだった。しかし、その積み重ねのなかで、私は、彼が家族や郷土を深く愛していることも知った。

3年生になって、彼は県内の国立大学で地域行政を学びたいと、自分の口で言えるようになった。私はよし、これで大丈夫だと思った。学力は十分だし、二次試験の小論文も、彼ならやれる。あとはひたすら目標に向かって走るだけである。

ところが、夏休みを過ぎたあたりから、彼の様子が目に見えておかしくなった。大学受験に向けた課題や宿題をことごとく忘れる。あるいは紛失する。受験に必要な願書などを何度も汚損する。それは、受験生の誰もが感じるような不安や焦りとは少し違っていた。

ある日、私は、彼を別室に呼び、ずっと思っていたことを口にした。「もしかして、大学に、行きたくないんじゃないの?」彼は、ぐっ、と詰まったような顔をした。私はさらに追い打ちをかけた。「家から、離れたくないんじゃないの?」

その瞬間、彼の眼からは、どっと涙があふれた。それは嗚咽に変わった。彼が泣くのを見るのはこれが初めてではなかったが、こんな姿は見たことがなかった。彼は、声を絞り出すように、「家族と、地元から離れるのが、怖くて……」とだけ言った。彼の実家は、その大学に通うには、かなり不便な場所にあり、常識的に考えれば、合格したら一人暮らしをしなければならないはずだった。その不安と恐怖を、誰にも言えなかったのである。そしてこれは、受験に限ったことではなく、彼がずっと抱えて来たものであるらしかった。

私は彼に言った。「車の免許を取って、通えばいい。道は、いくらでもあるんだよ。家族と離れたくないのなら、別の大学に行くもよし、とにかく、自分が心から納得できる道を選びなさい」

彼は、結局、志望校を変えなかった。しかし、何かが吹っ切れたようだった。同僚の教師が「最近は見違えるようだよ。第一、プリントの字の筆圧が変わった」と驚いていた。併願する私立大学も、小論文で受験できるところに絞った。それは彼の自信と覚悟の現われであった。しかし、小論文の指導をするのは私である。私は、冗談のように言った。「3年間、さんざん泣かされた先生と運命をともにするとはね!」彼は、照れながら「はい」とだけ言った。

センター試験が終わり、それから約一ヶ月の間、毎日、一対一で小論文の練習をした。緊張感のなかにも楽しさがあった。彼は、号泣した日からずっと落ち着いていたし、こつこつと素直にやる彼の良さが前面に出ていた。そして、めでたく、第一志望の国立大学に合格した。寮生活をしながら、ボランティアのサークルに入り、充実した大学生活を送ったはずである。

大学に入学する直前、彼は「親元を離れて寮に入ります」報告をしに来た。私は笑って、彼の背中をポンと叩いた。

その後私は退職し、横浜に引っ越してしまったため、音信が途絶えてしまったけれど、彼は今ごろ、何をしているだろうか。ときどき思い出すのである。