高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ルネ・クレマン『居酒屋』(1956)

予想よりはるかによかった。よく、あのゾラの代表作を、2時間弱のコンパクトかつきちんとした骨格を持ったドラマにまとめたよ。ルネ・クレマン、さすが。

出だしで、あ、これはいいと思うのは久しぶり。オープニング。ジェルヴェーズが窓から外を眺める。モノローグが重なる。「彼が昨日帰って来なかった。こんなことは今までなかった。でも、彼は足の悪い私には過ぎた人だ」もう、これでつかみはOK。そのジェルヴェーズ、つまりマリア・シェルの美しさ。薄幸の美しさなのである。メイクらしいメイクもしていないし。しかし、あの、ハリウッド女優とは違う、実質の詰まった姿、顔。この重厚なドラマを演じるにふさわしいだけのものを、冒頭で見せるんだからね。

それにしても、アメリカ映画とヨーロッパ映画の違いをどう考えたらいいのか。自然と人工。町ひとつにしてもロケなのかセットなのか、本物感が全然違う。自然主義のドラマだからこそ、その本物感はとても大事なのだ、ライティングも。

それにしても内縁の夫、ジェルヴェーズの向かいの部屋の娼婦の姉妹のところへ泊まっているのには恐れ入ったね、クズ中のクズ。場面変わって洗濯場。貧しい者の職業の代表、ここ重要。そこでヴィルジニー(娼婦の姉)と取っ組み合いのけんかになる。これがすげえ。水溜まりの中を転げまわる。ズロース(としか言いようがない)をおろして尻を叩く。二人とも本気、マジでどっちかが死ぬんじゃないかと思ったよ。これだけでも一見の価値あり。ヴィルジニーは物語の鍵を握る役ですが、なかなかよかった。

とにかく不幸の連続。クポーという男と結婚。彼は屋根から落ちて怪我。貯金なくなる。ジェルヴェーズに思いを寄せるクポーの友人から借金して店を開く。夫、酒浸り。ヴィルジニーとの再会。前夫が家に転がり込む。クポー、客の洗濯物を質に入れて飲む。部屋中に反吐をまき散らす。アル中の幻覚で乱暴、店を破壊。運ばれて死ぬ。

なお、前夫はジェルヴェーズに手をつけ、ヴィルジニーと関係を持ち、店を乗っ取り、店員にも手を出している。それにしても、古今東西、クズ男はどうしてこうも似たようなタイプなのか。酒と女と暴力。そして女はなぜこういう男にひっかかるのか。そういう世界を描いた作品はごまんとあるが、なぜそうなるのか、どうしたらよいのかを追究した作品はない。ここまで来るともはや宗教の世界になってしまう。

いったい誰が悪いのかと思っちゃったね。社会制度?いや、違うだろ。

最後が怖いんだ、この映画。ヴィルジニーの店に、ジェルヴェーズの娘ナナが来る。ヴィルジニーはキャンディーを恵んでやる。ナナ、リボンを要求。ナナ、酒場へ。そこには生活にすっかり疲れて、貧困のどん底、汚れたジェルヴェーズの姿が。死んだようにうつろな表情で座っている。ナナは外へ出て、リボンを首に結ぶ。大勢の男の子のなかへ。嬌声をあげるナナと、それを取り巻く男の子たち。この娘の将来を暗示して終わり。

ナナは、前夫とジェルヴェーズが関係を結ぶのも見ている。長男は鍛冶屋の修行に出、二男は伯母にもらわれ、残ったのはナナだけなんだよね。彼女は夜の蝶になるのか、母のように幸薄く男に振りまわされたあげくに貧困の淵に沈むのか。

とにかく、マリア・シェルは美しかった。

物語のちょうど中盤、近所の人間を招いて誕生会を開くのが彼女の絶頂。みんなにごちそうする。しかしそこに前夫がヴィルジニーの手引きでやってくる。そう、天国はいつでも地獄への道につながっているのです。それにしてもフランス映画、料理がうまそうだなー。みんなよく食べ、よく飲むのでした。