高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

言葉の快楽② 谷崎潤一郎のこと

言葉の快楽、文学と官能について考えようと思い立ち、まず脳裏に浮かんだのは谷崎潤一郎のことであった。私は某大学の授業で1920年代から40年代の文学を読む、というグループディスカッションを中心とした授業をやっているのだが、その柱に置いているのが彼の「春琴抄」(1933)なのであった。まったく、傑作と呼ぶにふさわしい、読めば読むほどすごい作品であるが、学生の反応はまちまちで、耽溺する子もいれば、嫌悪をもよおす子もいるようである。まあ、それでいいのである。

春琴抄」が評判になっていた当時、西田幾多郎が弟子に感想を聞かれ、「何しろいかに生くべきかが書かれていないからね」と言ったエピソードはあまりにも有名だが、私はこのいかにもインテリらしい発言が大好きで、大嫌いである。崇拝し、惚れ抜いた女の醜くなった顔を見ないために針で目を突いた佐助の生き方、生半可な知識人よりもよほど骨のある生き方を示していると思うのだが。インテリはあれをする時も偉そうに哲学を語るのか。

さて、谷崎潤一郎とエロティシズムを考えた場合、これが意外と、あっさりさっぱりしていると感じるのは私だけであろうか。それは結局、文章に秘密がありそうなのである。官能を表現するには、谷崎の文章はあまりに一本調子でありすぎる。「陰翳礼賛」なるものにしても、はたしてあれに陰翳があるであろうか。上方文芸を王道と考える保田與重郎は終生谷崎を認めなかったが、それは私も賛成である。谷崎のエロティシズムは本質的に明るく健康的であり、隠微な世界を描くのには向いていない文章である。

そして、意外にも、谷崎は恋愛小説を書いていない。それは女性作家が鋭く解き明かしたことで、三枝和子は『恋愛小説の陥穽』で谷崎文学を批判しているし、彼が書いた恋愛小説は唯一『猫と庄造と二人のをんな』だけだと『谷崎文学と肯定の欲望』で言った河野多惠子も、それはまったく正しかった。庄造と愛猫リリーの睦み合いは、谷崎のどんな小説よりも優れて官能的である。人間同士ではこうはいくまい。

春琴抄」に話を戻そう。盲目の三味線奏者・春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語だが、やはり読みどころは、顔に熱湯をかけられた春琴の顔を佐助が見まいとするこの場面であろう。

「お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯いっしょうがいお顔を見ることはござりませぬと彼女の前にぬかずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思ちんししていた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった」

ときは昭和8年、世の中には軍国主義の足跡が聞こえていた。谷崎は、自己の美学に準ずるためにもこの作品を書いた、と言わざるを得ない。すなわち、自分は醜い現実は見るまい、ということ。

物語の途中、春琴は佐助の子どもを妊娠・出産するが、二人はあくまでも主人と丁稚、師匠と弟子の関係を崩さず、男女の肉体的なつながりを頑なに否定する。私はここが最高に素晴らしいと思っている。時代的な表現の制約もふまえ、春琴と佐助のセックスは一切描かれない。しかし、春琴が生んだ子どもは間違いなく佐助の子である。はたして、この二人の、閨房での関係はどうなっているのであろう。つまり、文章では、そこがすっかり空洞になっているのである。したがって読者は、どんな場面を想像することも可能になっているのだ。もしかしたら、サディズムマゾヒズムのの関係が逆転しているのかもしれないとか、やはり春琴はあのまま傍若無人なのではあるまいかとか、どんな妄想をしてもよいのである。やれ、楽しや。これがあったればこそ、「春琴抄」は傑作たり得たのではあるまいか。

教訓。エロは見せるにあらず。隠すに限る。