高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

ウディ・アレン『ブロードウェイと銃弾』(1994)

『ブロードウェイと銃弾』、ウディ・アレン。このひとについて発言するのは勇気がいる。作家の人間性と作品は同一視すべきなのか、完全に分けて考えるべきなのか。永遠のテーマ。でもこれを観たのは、この監督のあの問題が発覚する前のことで、日記にメモも取ったものなので。せっかくだから公開します。まあ、たいした内容ではありませんが。

まず、1920年代の狂乱の時代を象徴する、アメリカのミュージカルが花開いたことと、マフィアの抗争をからめたのがすごいですね。ウディ作品のなかでも、こんなに、脚本がすばらしいと思うものはないんじゃないか。そのぐらい、絡ませ方がすごかった。

そして、なかなか怖いテーマが描かれている。芸術をとるか生活をとるか、天才と凡人の違い。

芸術家を自認する主人公デヴィッド(ジョン・キューザック)は、ようやく自分の脚本を上演できる運びとなるが、そのスポンサーがマフィアの親分ニックで、愛人オリーブをいい役に振り当てることが条件。この、コーラス・ガール上がりの愛人がまたいかにもウディ作品らしい女で、巧い。キャラとしては『ラジオ・デイズ』のミア・ファローに近い。キンキン声まで似ていやがる。何というかまあ、知性のかけらもないお馬鹿さんなのです。

そして、かつての大女優ヘレンが、もう明らかに『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンなわけで、すっかりうれしくなってしまう。主人公との関係も明らかにパロディ。それから、過食気味の俳優(稽古期間中にどんどん体型が変わっていく)が出演。一癖も二癖もある連中が集められる。

そこに絡んでくるのは、マフィアの子分チーチ。これが実はとんでもない才能の持ち主で、彼のアドバイスで脚本はどんどんよくなっていき、いざ公演となると大評判になる有様。主人公は最初は拒絶するも、チーチの天才ぶりに何も言えない。しかもチーチはそれを誇りもしなければ、ましてや俺の作品だなんてことも言わない。純粋な芸術家なんですね。

ところがそこから劇的なドラマが待っている。名を成すことには執着のないチーチ、しかし下手くそな親分の愛人の演技に我慢がならなくなり、ついには殺してしまう。そしてそれを知った主人公は、「人として許せない」と怒る。私はここで寒気がしましたね。チーチが本物の芸術家であり、主人公はどこまでも凡俗な人間であることをこんなに鮮やかに浮き彫りにするとはね。

チーチは最後、ボスに殺されますが、息絶える前の最後の言葉が、劇のラストのセリフの手直しという徹底ぶり。なお、チーチの父親(この日本語、音韻的にどうだろうか)もオペラ好きで、気に入らない歌手をボコボコにしたという過去があります。芸術家の血なんだな。

主人公は大女優との恋愛も、劇作家になる夢も捨て、かつて苦しい時代をともにした娘と結婚することにする。

しかし、こういうストーリーを追ってもあまり意味はなくて、映画自体のテンポの良さで、芸術家と凡人がどんどん相対化されていく、それがすごいのですよ。しかも、どっちにも偏らない。ゆえに、ラスト、恋人と抱き合う主人公の映画的なハッピーエンドは、「これでいいんだよ我々は」とも思わせるし、徹底的に凡人を皮肉っているようにも見える。

1920年代らしい音楽(というかこの監督の音楽のセンスは毎度ながらすばらしい)。コール・ポーターユージン・オニールとか、知っている人にはうれしい名前が目白押し。

ウディ・アレンの映画、とくにセリフの面白さをもっと理解できるようになりたいな。主人公が売れない仲間と飲んでいる時のセリフ「彼の作品は天才的なんだ、だって彼にしか理解できないんだからね」とか。こういうの、日本人俳優で演じられる人がいるだろうか。

あと、画面構成がいちいち完璧です。映像に欲情する、そんな感じを久しぶりに味わいました。また観たい。