高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

山口瞳『血族』

一枚の写真から一篇の物語が始まることは、よくある。太宰治の『人間失格』なんかがそうだ。

この山口瞳『血族』は、あるべきはずの写真が「ない」ことから物語が始まる。

したがって、これは本当によくできた「小説」なのである。しかし、小説の作り物感がない。材料は自分の出生と、「私」の母を中心とした一族の秘密で、それをひとつひとつ解明していくという構造になっているから、何度読んでも、これが事実を描いた作品だと錯覚を起こしてしまうのだ。それが欠点であると言えば、言えるかもしれない。

だが、いつのまにか「私」と完全に一体になって調べ、移動し、動いていくうちに、この物語の白眉とも言える場面に至った時は、まったく「私」と同じ衝撃と感動を、読者も味わうことになる。それは、筆の力以外の何ものでもないのである。 その場面というのはこうだ。

「私」は、一族の秘密を探っていく間に、やがて、母が、横須賀の遊郭の娘であることを突き止める。「今」、その遊郭は跡形もないし、かつてのそれを知る人々も口を開きたがらない。だいたいの見当をつけた場所に行くしか手立てはないのである。

「私」はひどく疲れていた。しかもその日は暑い日だった。

そして、次のような箇所に至る。

 私は、勇太郎の法事のときと同じように、鶴久保小学校のそばの歩道橋の手前でタクシーを降りた。角に文房具屋があり、その隣にソバ屋があった。私は、小学校があるんだから文房具屋があるんだなと思いながら、そこを左に曲った。文房具屋の裏に土蔵があり、道の右側に大きな柳の木があった。記憶に誤りがなかった。樹齢百年は越えていると思われた。一抱えでは無理だろうと思われるくらいに幹が太い。 それが見返り柳だとするならば、柏木田遊郭は、すぐそのあたりであるに違いない。しかし、私は、いきなりそこへ行かずに、歩道橋にあがってみた。柳は、歩道橋のもっとも高いところよりもさらに高く、濃い緑の葉を垂らしていた。そこから柏木田は見えなかった。 私は歩道橋を降り、柳を右に見て、ゆっくりと歩いていった。柳の木の横に写真館があり、その先きがマーケットになっている。そこが、柏木田カフエー街分布図にあるカフエー組合事務所の位置だろうと思いながら左に目を転じたときに、忽然として柏木田遊郭が出現したのである。

私は、何度読んでも、ここで息が止まる。 時が止まった瞬間である。過去と、現在がいちどきに、「私」に襲いかかる瞬間といってもいい。

この後、物語は加速する。次々と秘密は明らかになっていく。この、忽然と遊郭が姿を現すまでの歩みは遅々としていて、それはなかなか事実が明らかにならないこと、調査に手間取ること、秘密や疑惑が折り重なっていくことももちろんあるのだが、一番の原因は、「私」の迷いにあるのだ。しかし、眼前にその象徴である遊郭が「見えた」ことによって、霧が晴れるようにすべての風景が鮮やかに姿を現す。作者は、この場面を最も描きたかったのだろう。

 余談になるが、横須賀という町は、この作品によって私には永遠となった。私はそれから二、三度、横須賀を訪れ、ドブ板通りや軍艦を見たりした。その後しばらくして、ひょんなことから横須賀で働くことになった。

歩けば歩くほど、独特の匂いを持った町である。ここはかつて軍都として栄えた。明治の初期は、横浜市よりも人口が多かったほどである。高齢化が進んだこの町は、老人であふれていた。しかし、その老人がーーとくに女性が、どういうわけか、『血族』という作品を思い起こさせるのだった。一種独特の、色気があるのだった。

 山口瞳には、父親を主題にした『家族』という作品もあるが、『血族』にはとてもかなわない。