高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

フランソワ・トリュフォー『アデルの恋の物語』(1975)②

この映画において、イザベル・アジャーニが偉かったのは、たんなる恋愛物語にしなかったことですね。女性の自立とかいう問題を抜きにしては語れない。

はっきり言って、アデルの最大の不幸は、父親がヴィクトル・ユゴーだったということ。スクリーン上には一度も姿を現さないこの父親が、彼女にとってどれだけ強大な存在だったのか。アデルが戦いを挑んでいるのは、本当はピンソンではなく、父親であり偉大な作家でもあるユゴーなんだよね。

イザベル・アジャーニは、それをあからさまにではなく、おぼろげながらわかうように演じている。

狂ったようにピンソンを追いかけるアデルとほぼ同じ重さを持って描かれているのが、彼女が下宿で狂ったように何かを書き続ける姿。それは手紙だけではなく、おそらく詩であったり、日記めいた覚え書きだったりする。

彼女は自分の詩が売れたらその資金でピンソンと結婚し、幸せになれるとどこかで思っている。でも売れない。そのたびに父親に無心せざるを得ない。またそのたびに莫大な金を送って来るんだ、この父親は。アデルは自分がユゴーの娘であることを隠している。でも必ずバレる。

どこまで行ってもこの偉大すぎる父親がつきまとうんですよね。父がいなければ何もできない。でも逃れたい。結婚も認めさせたい。金を送られれば送られるほど、逆にアデルの心身が苛まれていくのがわかる。決して、恋愛だけが彼女を狂わせたわけではないのです。水死した姉・レオポルディーヌの悪夢もアデルを追いつめます。そりゃあ、感受性のかたまりみたいな人間からしたら、もはや役満

私がいちばん胸の詰まったシーン。終盤、ほとんど無一文になったアデルは下宿を出、木賃宿みたいなところに行かざるを得なくなります。入院病棟の大部屋みたいにベッドがずらりと並んでいる。隣の女が、こっそりアデルのトランクから物を盗もうとします。入っているのは紙の束。そう、アデルが下宿で書き続けていた原稿です。

アデルは「この本は私のものよ」と言って怒り、ベッドの下にもぐり込み、トランクを子どものように抱きしめて眠ります。ここ、本当に、哀れで哀れでしかたがありませんでした。このシーンに比べたら、ラストでピンソンに見向きもしない姿なぞ、まだ甘いとさえ思うぞ、個人的には。

ふと、ヴァージニア・ウルフのあまりにも有名なエッセイ『自分ひとりの部屋』を思い出しました。女性がものを書くならば、年に500ポンドの収入と鍵のかかる部屋が必要、という、あれです。アデル・ユゴー1830年ヴァージニア・ウルフは1882年生まれ。アデルは間違いなく、先達の一人だったんだなあと思います。彼女は何ものかに戦いを挑んで、そして壮絶に散ったのでした。