高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

エリア・カザン『欲望という名の電車』(1951)①

今朝、たまたまTwitterでこの映画のマーロン・ブランドの画像を見て、居ても立っても居られなくなり、確か、この映画を観たときのメモが残っているはずだ、ということで、ノートの山を漁る。ありました(この類いのノートは、走り書きのメモを含めたら結構な量にのぼる。死ぬまでにこれらは消化できるのだろうか)。

以下、ノートから。

マーロン・ブランドの登場は、いろんな本にも書かれているけれど、そりゃあ衝撃的だったと思う(日本でいったら、『天国と地獄』の山崎努の登場が近いのかな。誰かが書いていたような気もするが)。それまでのハリウッド男優(ヒーロー)ときたら、その多くは仕立てのよいスーツを着て、美貌の女優と頬を寄せ合って、こちらを向いてフニャフニャした微笑みを投げかけているポスターが真っ先に浮かぶ。しかし、この映画のスチール写真におけるマーロン・ブランドは、笑顔など毛頭なく、汗のしみた、うす汚れたTシャツを着、それが何ともセクシーである。そして、その傍らには、幽鬼のようなヴィヴィアン・リーが立っている。

往年の彼女を見ると、つくづく、美しさの翳に隠れた、何かしらぞっとするような宿業といったものが感じられて、思わず目をつぶりたくなる瞬間がある。もちろん私が生まれたころには、彼女はすでに死んでいて、だが肥大化した伝説とともに生きていた。『風と共に去りぬ』も、『哀愁』も、本当によかった。ヴィヴィアン・リーは、少なくとも、映画を観始めたころの中学生の私を熱狂させる女優の一人ではあった。

しかし、彼女のもう一つの代表作である『欲望という名の電車』を観たのは、かなり後になってからのことだった。本で知ったあらすじに、子どもの私はたじろいだのかもしれぬ。あのヴィヴィアン・リーが、マーロン・ブランドに犯されるというだけで、すっかり腰が引けてしまったのである(私は強姦と幼児性愛だけは、昔からどうしても受けつけないのである)。

そんないきさつがあって、まあ、三十を過ぎてからやっと観たのだが、それはちょうど私が、母親との関係に悩んでいたときだったので、変に忘れられなくなってしまった。おそらく母は更年期できわめて不安定な状態にあったのだろう、そのころ、いつにもまして「女」だった。化粧や服装が微妙に変わって、どこか獣じみてさえいた。その当時は嫌悪感しかなかったが、まあ、いずれ自分もその道を辿るのである。