高山京子のブログ

高山京子(詩•日本近現代文学研究)のブログです。基本的には文学や映画のお話。詩作品はhttps://note.com/takayamakyoko/へ。Xは@takayamakyokoへ。

『淡島千景 女優というプリズム』

私のなかで女優・淡島千景がにわかにクローズアップされて来たのは、渋谷実監督の『本日休診』においてであった。それまでは、小津安二郎麦秋』の、原節子演じる紀子の親友・アヤ役ぐらいしか認識していなかった(『早春』や『夫婦善哉』はいちおう観ていたけれど)。まあこの『麦秋』でも巧いなあとは思っていたし、二枚目半~三枚目的な役柄が根っから好きな私(だから私は、小津映画の岡田茉莉子も大好きである)にとって、好感の持てる女優さんではあった。

それが、たまたま、『本日休診』がテレビで放映されることとなり、特に気合いも入れずに録画したものを観て、そんなにたいした役でもなかったのに、月並みではあるが、私はすっかり虜になってしまったのだった。その、無駄のない身のこなしの美しさ、流れるような所作に、私はすでに滅びてしまった日本の文化を見た。大げさでなく。後姿までどう映っているかがわかっている人の動き。

そして、もうこれは運命的としか言いようがないのだが、それを観た翌日に、なんと淡島千景は87歳でこの世を去ってしまったのである(私は日記を付けているので、ここに誇張はない。2012年2月16日のことだった)。この時の悔しさはちょっと言葉にならない。自分の馬鹿さ加減(つまり、すごい女優さんなのにまったくノーマークで長いこと生きていたこと)にあきれ返り、地団駄を踏んだが、しかしどうにもならないのであった。

それから私は、可能な限り、淡島千景の映画を見まくった。そして、その活動の一環として購入し、なかばあきれるぐらい克明に読んだのがこの『淡島千景 女優というプリズム』(編著:坂尻昌平・志村三代子・御園生涼子鷲谷花)だった。2009年発行だから、亡くなる3年前か。宝塚時代、出演した映画のこと、接した映画人のエピソードなど、彼女の半生をインタビュー形式でまとめた、なかなかの力作である。

読んですぐにわかるのが、彼女がとても聡明で、素晴らしく頭の回転が早い女優さんであるということ。もちろん、インタビューを文字起こししたものだから、肉声を聞いているわけではないのだけれど、その頭の良さはわかる。

そして 面白いのは、彼女が、自分の出演した作品について、すがすがしいぐらい忘れていることである。ようはまったく執着がないのである。インタビュアーの、「こうですよね」にも、ただ「そうね」という感じなのである。

この本で、淡島千景が、次のように言っている箇所がある。

初めのうちは、作って(役の)その人にならなきゃいけないもんだと思ってましたよね。でもそれがあるとき、「それじゃあ違うんじゃないかな」と思ったんですよね。だから、「その人がここにいるようでなくてはいけない」というふうに思うようになったんですね。芝居をしてるっていうことは、人に見せるものなんでしょうね。だけど、「見せてる」って感じちゃうのを私が観るのがいやだっていうことは、ただ「見せる」ための芝居よりも、その先へ行ったものがいいとなるわけでしょ、私にしてみれば。

衝撃的だった。これは、ある意味、究極のリアリズム論ではないか。近松の「虚実皮膜」にも通じるもの。

以前、ふと、変な疑問を抱いたことがある。ホームドラマである。親子、夫婦、兄弟姉妹なんでも良い。それぞれを役者が演じる。しかし、それは決して現実の家族を映したものではないのである。当たり前のことだが、顔が似ていない。血の繋がりはまず外形に出る。しかし、それを疑問に思い、「これは家族ではない」という観客、視聴者はまずいない。してみると、観客というものは、その役者が演じる何か眼に見えないものを観ているのである。リアルであってリアルではない、リアルではなくてリアルな何かを。

かつて映画界には名コンビというものがあった。淡島千景の場合、言うまでもなく森繁久彌である。しかし、現実の場において、二人の間には何もなかった。しかし、『夫婦善哉』を観た者は、この二人の関係性に男女の情愛を感じる。夫婦以上に夫婦なのである。

何かの役を演じたときに、これはきっとこの人の地なんだろうな、と感じさせる俳優が私は好きだ。だから、淡島の言うように、その役柄になり切っている芝居には息苦しさを感じる。当たり前だが役者は肉体を持っている。それを活かさなければどうにもならぬ。その生身の人間としての姿をベースに、役が渾然一体となったとき、はじめてその人物がいるように「見える」のだ。そういう意味で、淡島千景は稀有な存在なのである。どんな役でも、どこかに淡島千景が透けて見える。そのバランスが絶妙なのである。

モダンであり、古風であり、おきゃんであり、包容力があり、鉄火肌であり、自堕落であり、ときには恐ろしいほどの色気がある。優しそうに笑ったかと思えば、取り付く島もないような冷たさを感じさせる(宝塚時代、その冷たさ、鋭さが批判の的になっていたというのはむべなるかなである)。

ほんとうに、彼女は、どんな役でも演じることができた。多くの共演者から愛された「受け」の芝居。もう、こんな女優は二度と出ないだろう(なんだか追悼文みたいな終わり方になっちゃった)。