大映である。大映カラー(!)である。カメラは宮川一夫である。赤と緑の対比の色が大変鮮やかである。 オープニングで、固定された(当たり前だけど)微動だにしない白い灯台が何度か映される。そこに、旅芸人の一座を乗せた船の舳先が揺れながら入って来るショットが見事。流れ者の不安定さ。まさに「浮草」なのである。遠くには、どっしりと安定した庶民の生活がある。そのシンボルが灯台。それにしてもこの舞台はどこだ?いいなあ……言葉と風景からして、瀬戸内だろうか。
私は旅芸人とかチンドン屋とかそういうものが理屈抜きに好きである。あの侘しさ、もの悲しさがたまらないのである。 さて、劇団の舞台の演目は、京マチ子の国定忠治。カメラ固定の長回し。これに耐えられる昔の俳優は、やっぱり、すごい。地元の床屋の娘に言い寄った役者のところに、母親役の高橋とよが出てくる。剃刀を出すところがまた怖いのだが、高橋とよなのでもはや笑うしかない。
ストーリーそのものより、ワンカット、ワンカットを絵として楽しむ映画です。この映画自体、小津の作品のなかではどちらかというと目立たないものなのだけれど、それでも、あのカットが見たい、あの鮮やかな色が……と思い出される映画であります。そもそも、小津の映画にはそういう中毒性がある。あのテンポが体内時計にぴったりなのかしら。
モノクロで撮っていた監督は、当然、カラーになったとき、その色の効果を考える。だから、赤と緑がとくに印象的なカットをつくっている。アグファの赤というのが特徴的。それにしても宮川一夫はすごい。カットにキレがある。絵になる。有名な、鴈治郎と京マチ子の、雨の降る中での軒先をはさんでのケンカ、厚田雄春ではあんな迫力は出なかっただろうと思う。
旅役者という職業を蔑み、息子にはそうなってほしくないと願う主人公(中村鴈治郎)は、小津の分身でもあるんだろうな。小津は、自分が堅気ではないということをよく知っていた人。映画や芝居は、ヤクザなものである。あの吉田喜重に因縁をつけたことだって、橋の下で菰をかぶって春をひさぐ女に自分をたとえたぐらいなんだから。だからこそ、あんな映画が撮れるのだ。
ラストで、川口浩(この川口浩は、なんというかかわいい。ボンボンなのがわかる。まったく、母性本能をくすぐる)、若尾文子、杉村春子を残し、鴈治郎は旅立つが、この場面の杉村は秀逸。若い二人はめでたく結婚なんだからよい。でも一方の杉村は、これまでより、もっと「独り」になるのだ。それは〈女〉の終わりだから。鴈治郎は、もう二度と姿を現さないだろう。彼女に残された人生のドラマは、息子の結婚と、やがて孫が生まれること、そして〈死〉。〈母〉であり〈祖母〉であり、一個の裸の人間。わずかに残った〈女〉は、このラストシーンで完全に閉ざされてしまうのである。
小津安二郎は、永久に、死ぬまで、私のいちばん好きな映画監督です。その理由をあげたらきりがありませんが、間違いなくそのひとつは、ハッピーエンドのようで、実はぞっとするような陰惨なラストシーンにあります。