中谷美紀は『嫌われ松子の一生』からすっかり演技派ということになり、ただその演技がいかにも女優という感じでときどき鼻につくところはあり、この作品もまたそういう要素が結構強いのだが、要所ではさすがだなあと思わせるところがある。それについては後で書くが、この映画を観るのは二度目で、初回も笑って泣いたが、今回はまた違った意味で泣き、笑った。
なぜかと言えば、この物語のヒロインである幸江と、友人の熊本さんが育った気仙沼が、もう今となっては二度と見ることが出できない風景だからだ。つまり、この映画は、東日本大震災の前に制作されたもので、私が二度目に観たのは、震災後なのである。
で、阿部寛はさておき(大好きだけど。『はいからさんが通る』からのファン)、先述したように、ラスト、幸江が熊本さん(アジャ・コング、これがすばらしい!)と再会するシーンに、私はすっかりうならされてしまったのであった。
観客は、二人の中学時代をすでに知っている。しかし、当然のことながら、中学時代、現在は、それぞれ別な役者が演じている。したがって、大人になってからの二人は、その経験していない中学時代を経験したように、再会の演技をしなければならないのだ。それがここでは完璧といえるほど素晴らしかったのである。「熊本さん」「森田さん」を繰り返すだけの二人、観客は、あの二人が成長し、苦労を重ねたうえで、やっと再会できたように、まぎれもなく感じるのだ。ここで泣く。
堤幸彦らしく、細部がきいている。たとえば、娼婦時代の幸江が持ち歩く紙袋は「千匹屋」(正しくは「千疋屋」)。スポーツ新聞の見出しが、「カルーセル麻紀、男だった」だったり……ちなみにこの映画に出演しているカルーセル麻紀は、隣家のおばちゃんを好演。
そして何と言ってもすごい存在感なのが、ブリーフ一枚で警察に連行される西田敏行である。中華料理屋の主人の遠藤憲一、「西日がビンボ(貧乏ではない)くせっ!」という西田の愛人役・名取裕子(なにげに気仙沼弁がうまい)、皆さん芸達者です。
また中学時代に話を戻せば、東京へ発つ幸江に届けた熊本さんのお弁当が泣ける。いつもならめざし1本だったおかずが、イカ、めざし3本、ちくわ、ゆでたまご、と、能う限りの心づくしが詰まっている。これは泣ける。
侘しさとは何なんだろう。貧しさとは何なんだろう。これは奥が深い問題で、ポジティブに描けば西原理恵子の世界になるし、負の方向だと『闇金ウシジマくん』みたいになる(極端だけど)。いわゆる底辺のお話は、どちらにも転ぶし、かつ、すさまじいエネルギーを持っていることだけは確か。そして魅力的なのも確か。それはたぶん、人間が生存するうえでの、原初のエネルギーみたいなもんに抵触するからなんだと思う。
生半可な気持ちでこういう世界を善に描こうとすると、恥ずかしくなるような薄っぺらいセンチメンタリズムにつながる。映画に話を戻せば、エンドールのあとの最後のセリフ「幸や不幸はもういい」は蛇足。これが、薄っぺらいセンチメンタリズムってやつです。